2011年6月20日月曜日

単純に嬉ちー

離れていても僕の誕生日を覚えて、祝ってくれる人がいて嬉しーです。
何歳までかは分からないけど、生きれる限り生きつくしたいです。

今日は一日事務所の裏にある小学校のシャトルランの音を聞いていました。
子どもたちが自由に校庭で遊べるような土地にしていかねばならん!


おめでとう!

少年お誕生日おめでとう!

少年にとって良い歳でありますよう、少し離れたところから祈っています!
(スリランカにいる兄より)

写真多し!19日日報

石巻市より北東にある相川子育て支援センターに酪農大4名と環境ネットの久美さん、パルシックからは日方さんと僕、特別ゲストに石巻からよしみさんを含めて8名で9:40に出発しました。
メインメニューは山形県小国町の川崎米農家さんのもち米を使ったずんだ餅です!

僕は高校時代の米部部長の肩書きを背負って今回の企画長として気合を入れ今日という日に挑みました。

今日は東宝の映画「わんこの島ロック」の試写会が相川子育て支援センターであり主演の佐藤隆太が来るということで、企画段階からワクワクしていました。下の写真は彼が差し入れしてくれたミスタードーナツとすねてる女の子。


避難所のおばあちゃんの参加もありその場の雰囲気はとっても盛り上がりました。
おばぁの頭が近くて佐藤隆太も恐る恐るきねを振りおろしていました。
出来たてのずんだを配り、みんな大喜びでした!
千葉県房総半島からおいでの「安房なのはな隊」もお餅をついてお雑煮を出したり、特産品の琵琶や甘夏をた~くさん配っていました。お昼過ぎからは演奏会も始まり楽しい交わりができました。

今回の炊き出しは振舞うだけではなく、「参加型」で出来たことがとってもやりがいを感じる要点でした。また、何度か来てることもありお母様方から「兄ちゃん待ってたよ」と声をかけて下さり、とっても嬉しかったです。


夜には石巻事務所のメンバーと久美さんでぼくの19歳の誕生日を祝ってくれました。
6月20日が僕の誕生日です。一年後も健康においしいものを食べれていたら・・・と願っています。


2011年6月18日土曜日

東日本大震災から100日






















3月11日から今日で100日が経ち、現地の問題点も時間と共に変わり、いま住人を悩ましているのは汚物から湧き出るハエの問題です。昨日16:00ごろ、酪農学園大学の先生がハエ駆除のためペットボトルを仕掛け、本日11:00ごろに結果を見に行きました。ひとつは殺虫剤のスミチオンにジュースを混ぜた液と、もうひとつは通称気仙沼液(酢50CC+日本酒70CC+砂糖100g)で対象実験を行いました。結果は歴然気仙沼液の大勝利でした。

その後、酪農大7班も石巻を旅立って行きました。休みが入ったこともあり触れ合う時間が短かかったですが、蒔田先生はじめリーダーのみっちゃん、グリコ、前たくは初めからリラックスしていてその場を盛り上げてくれました。特に食事に関しては毎食力を入れていてとってもおいしし一週間となりました。ごちそうさまでした!







お昼には8班が到着して急いで法音寺の「慰霊と復興への祈りコンサート」の会場ヘルパーに参加しました。百か日の法要のあとに江口玲さんのピアノコンサートがあり、ひとつの区切りとして自分自身を省みると、被災者と支援者の関係でしか触れ合えて来なかったと思いました。「してあげる」だけでは長続きせず疲れてしまったので、「一緒に取り組む」といった個人と個人のつきあいで長く友達でいたいな~と言う感じに転換して再出発しようと思いました。この世に与えた外山晶浩をそのまま提供できたら、と願っています。
読者でもある相ケンさんがTVの中の言葉を引用して言っていた「2万5千人が亡くなった1件の事件ではなく、1人ひとりが亡くなった2万5千件の事件だ」という言葉に、それぞれの人生があり、それぞれのつながりがあったことを少しだけど具体的に想像することができました。
観光地化し始めているこの土地に立つ者として、それらの事実を覚え他者への心配りを忘れてはいけないと胸に刻む思いであります。

2011年6月17日金曜日

休暇からの帰宅

どうもこんにちは、休暇明けの外山です。
14日の夜、東京へ帰る石川さんと徳さん夫婦(炊き出し隊長)を車で仙台駅に送ってから、僕は休暇に入りました。予定では山形市内で一泊してから翌朝、独立学園のある小国町に帰ろうと思ったのだが、月明かりもきれいだし、帰ることにわくわくしてきたのでその日の内に小国に向かいました。
小国に着いたときには0時を過ぎていて、節電の影響もあり町や村は人影を感じさせないほど真っ暗でした。車を降りようとデジカメや携帯、名刺(人生初名刺)の入ったカバンを取るため助手席に手を伸ばすと、カバンが無いことに気付いた。思い返してみると、途中で寄った山形市内の徳さん宅に置き忘れたことが分かった。休みの活動をブログに投稿するのを楽しみにしていたのだが、そのわくわくが返ってあだとなった。
僕の母も今年3月のさよなら音楽会(卒業式前日の3年生の晴れ舞台)に向かう途中で寄ったガソリンスタンドにカバンを置き忘れて、予定より大幅に到着が遅れ、悔やんでいたのを思い出し、「あの母あってこの子あり」と、つくづく感じました。

休暇中は川崎米農家に泊まりながら、恩師の助川先生とヒメサユリを見に行ったり、担任面談をしたり・・・・。後輩女性からは「夏休みに私たちも何かしたい」と言ってもらえて、僕としてもその熱意を活かした企画を組み、応援したいと思いました。多くの人に会い、胸いっぱいの好意を受け取り、今日石巻に帰ってきました。2日間の小国休暇は、被災地から離れ今後どうしていきたいかを考える有意義な時間となりました。みんなありがとう!

2011年6月14日火曜日

在宅被災者、置き去り/防災計画、見直し急務

おつかれさま。毎日、事件簿をチェックするのが日課になってきました(笑)
自分自身が同じ年だったときに、外山君が書いているような文章は書けなかった
と思うよ。
すでにチェック済みかもしれませんが、外山君、そして酪農大の学生さんたちの石巻市内の「在宅被災者」への活動が一歩先を行っているでは?という 河北新報電子版の記事(6/10)がありましたので転載します。

では、頑張って!
また会える日を楽しみにしています。(伊藤)
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東日本大震災では被災後も自宅生活を続けた「在宅被災者」に、食料や物資が届
かないケースが続出した。震災発生から11日で3カ月。多くの自治体 は在宅
被 災者数の調査もしておらず、実態は今も不明のままだ。各県の防災計画が
「避難所にいる被災者」を前提に被災者対策を考えていたことが原因とみら
れ、防災計 画に「在宅」の視点を加える見直しの動きが始まっている。(若林
雅人、武田俊郎、東野滋)
◎食料・物資届かず、実数すら不明
宮城県の地域防災計画は「避難収容対策」の項目で「給水、給食などの救助活
動が可能」な避難所の確保を市町村に求めている。一方、在宅被災者に ついて
は、高齢者や障害者など要援護者の把握と災害時の安否確認を求めている程度。
在宅被災者全般への対応に関する記載はない。
県危機対策課は「在宅被災者の位置付けは、避難所の被災者と同じ。在宅生活
で支障があれば、避難所に避難してもらうという考え方だった」と説明 する。
岩沼市など市町が各行政区に物資を届け、区長を通じ在宅の住民に配給した例
もあった。しかし市町任せにした結果、配給の有無で格差も生じた。同 課は
「被害があまりに大きく(避難者が多すぎて)在宅被災者に目が向いていなかっ
た面はある」と認める。
県は2010年度に宮城県沖地震に備えた新たな被害想定調査を始め、12年
度から地域防災計画を改定する予定だった。今後の改定で「在宅者対策 は大き
な課題の一つになる」(危機対策課)としている。
岩手県は避難所で食料や物資の供給を受けている在宅被災者を「在宅通所
者」として集計。4月初旬には約2万4000人だった在宅通所は現在、約1
万 1000人に減った。県災害対策本部は「ライフラインの復旧などで避難所
に通う必要がなくなった分が減っている」と説明する。
県の地域防災計画は在宅被災者を特に区分していないが、県総合防災室は「今
後、何らかの形で(在宅被災者対策を)検討する」と話す。
大規模地震が予想されている全国の他地域では、今回の震災を踏まえて在宅被
災者対策を含めた防災計画見直しの動きも出てきている。
東海地震に備える愛知県の地域防災計画は、避難者や災害時要援護者対策の一
環で「在宅者対策」の項目を設けている。だが要援護者情報の共有など 事前準
備に関する内容が中心で、震災時の具体的な方策までは示していない。
県防災危機管理課は「今回の震災で在宅被災者に情報すら行き届かなかったと
の話を見聞きし、東海地震でも同様の状態になるかもしれないと感じ た。震災
で見えた課題の検証と防災計画の見直しを進めたい」と話す。
国も実態把握に乗り出した。内閣府は現在、被災自治体に在宅被災者数などを
問い合わせており、6月中旬にも全体の状況をとりまとめる方針。
内閣府被災者生活支援チームは「自治体が把握しているかどうかも不明だが、
物資も情報も届かない状態を避けるため、まずは把握に努めたい」とし ている。
◎在宅被災者置き去り/自宅で苦闘
東日本大震災の発生から11日で3カ月。地震や津波の被害を受けながらも、
自宅を離れられなかった「在宅被災者」に、公的な支援は少なかった。 被災者
たちは、食料や水の調達など多くの苦難を乗り越えてきた。
<宮城・南三陸/食料届かず焦る日々/寝たきり連れてゆけぬ>
米粒は白く光り、抜群のおいしさだった。
「涙が出そうだったよ」。宮城県南三陸町戸倉の後藤さえ子さん(59)は、
訪ねてきた秋田県のボランティアからもらった、おにぎりの味が忘れら れない。
海まで約200メートルの高台にあった自宅は玄関先まで津波が押し寄せた
が、奇跡的に難を逃れた。地区のほかの家は大半が壊滅。住民らが避難所 に身
を寄せる中、後藤さんは夫(63)とともに自宅にとどまった。
「96歳の寝たきりの義母を、避難所には連れて行けなかった」
近くの川に水をくみに行き、まきをくべて釜で米を炊いた。慣れない作業で、
べちゃべちゃしたご飯にしかならなかった。冷蔵庫にあった魚や肉も1 週間ほ
どで尽きた。
同じころ、避難所に物資が届き始めたが、量は少なく、住民らは互いに持ち
寄った米や漬物でしのいだ。秋田のボランティアが訪ねてきたのは、この ころ
だ。「当時は生きた心地がしなかった」と振り返る。
2週目に入ると物資の量が増えてきた。町の指定避難所に届いた物資は地区の
自主避難所にも分配され、後藤さんも受け取ることができた。
電気は震災から2カ月近くたった5月上旬、簡易水道も6月に入ってやっと復
旧。ようやく生活が落ち着いてきた。
避難所で物資が余り気味だという話を最近、よく聞く。「本当に欲しい時に
は、なかったけれどね」。後藤さんはつぶやいた。
<石巻/水上生活、情報過疎に/母は通院、店は再開未定>
石巻市水明南1丁目の鮮魚店経営菊地秋男さん(60)は妻みはるさん
(58)と相談し、自宅にとどまることを決断した。人工透析を受ける母親
(90)が、避難所の暮らしに耐えられるかどうか不安だった。
地区一帯は、旧北上川をさかのぼった津波が堤防などから漏れ出して浸水。菊
地さんの店は保冷庫や商品棚などが流されたが、店と棟続きの自宅は床 下浸水
にとどまった。水が引くまで4日間、「水上生活」を送った。
避難所には行かなかったので、避難所でどんな支援が得られたのかは、想像も
できない。
母親の通院や食料、水の調達には幸い、浸水を免れた車を使うことができた。
煮炊きにはストーブを使ったが、ガソリンや灯油が入手しにくい状態が 続き、
「毎日、ハラハラし通しだった」という。
電気が約1カ月間も途絶える中で、困ったのは情報の入手。ラジオが頼りで、
身近な施設の復旧見通しなどの確かな情報がなく、不安と心細さがこた えた。
店のシャッターはこの3カ月、一度も開けていない。生活再建には、やはり本
業の再開が不可欠だ。店舗の改装が済めば、店頭販売も始められるが、 業者は
復旧工事の依頼が殺到し、いつ改装できるのか、まだ見通しが立たない。
「年内に営業再開できれば…。石巻は水産の街、魚の街だから、頑張らない
と」と菊地さん。まだ浸水の跡が残る店舗で片付けに追われている。

仕事って難しい・・・・・

 社会人一年目の僕にとって毎日の仕事って結構大変だったりするんです。
長く続くようなペース配分だったり、状況に合わせた対応やその中での生活そのもの・・・・。
もともと大したことができるわけではないので、周りにはたくさん迷惑をかけています。
もっと頑張んないとと思っていても、手を抜いてしまったりするんです。
でもそんなときは、「同級生だってそれぞれの地で新しいことと向き合いながら生きているんだ」と振り返るんです。そうすると甘えてちゃだめだって、ちょっとプレッシャーをかけて腰を軽く働き、頑張った日には自分をほめる。基本的に僕は自分に甘く生きてきました。