2012年3月5日月曜日

約束を果たして

28~3月3日

久々に帰ってきた岡田家では家族みんなが出迎えてくれました。
ひと月半で変化が大きかったのは、仁平君でした。前よりも太り、すくすくと成長しているさまが、見受けられました。その日は猪肉をいただきました。

母聖子がクリスマスプレゼントで送った服も、首元には年紀が入っていました。
11月25日生まれの仁平君
 
 僕は九州旅行に出かける前、長女かんなと一つの約束をしたものの、やり終えることなく出発したのであった。今回帰ってきたのはその約束を果たすためでもあった。

 それは子どもたちが遊ぶための‘‘ヒミツ基地”だ!
 旅行前は、基礎となる石の上に木をわたし、水平を測り土台だけはこしらえていた。
 振り返ってみると、屋久島帰りに本体に取り掛かれたことが幸いだった。曲線を生かす茂さんのもとに20日間いなかったら、こんな風にはならなかっただろう。
 完成図のない作業を続けた末、完成したのは3日のフェリーが出発する1時間前。
 機能性や正確性などは置いといて、れこれから天然材を生かした建築の道に進みたいと考えている、僕にとっては自信につながる作品ができた。

岡田家との記念写真

中では焼き肉なんかもできます
 
入口は子供用で、主に余っていた農業用の竹を使いました。
「みらいのいえ」はかんなが命名。

何に見えますか?
僕はセミの抜け殻かな


2012年3月1日木曜日

宿毛~中島へ

24日
高知県に上陸して、まず最初の目的地は三原村の放し飼い地鶏「しゅりの里」でした。宿毛から3台の車に便乗しました。(最後に乗せてくれた農家喫茶クロウサギhttp://mori100s.exblog.jp/7671330/を営む、どぶろく名人東さんには、わざわざしゅりの里まで送ってもらいました)ここは茂さんから紹介を受けて訪ねることができました。

夕暮れ時、人里離れた山奥で3頭の犬が出迎えてくれました。
その晩はしゅりの里http://www.shurinosato.com/blog/index.htmlのオーナーである藤田さんと地域振興についてお話しました。鶏を飼いたくて10年前に就農し、今は「里を守るとは」と考えながら働く藤田さん。地元で雇用をつくり、商品を外からも購入してもらい、お金を地元で回すサイクルを目指していました。

25日
午前中、卵集めと出荷、餌やりの一部を体験し、お昼に藤田さんと足摺岬に行きました。
足摺で休日カフェ「たぬき」を営業していた佐鳥さんの一周忌のお祭りに藤田さんと参加した。佐鳥さんは藤田さんと茂さんの共通の友人で、建築デザイナーとして茂さんとコンビでいくつも建てたそうだ。晩はその2人が建てたお家にお世話になった。

26日
そのお祭りに来ていた清水大月で生パスタ屋さん「マンジャーテプレーゴ」
http://mangiate-prego.com/pasta.htmlを営む、中澤さんと知り合い泊めて頂いた。

その晩は中澤さんと「THRIVE」http://www.youtube.com/watch?v=UbIOCubN7SE というドキュメンタリ映画を鑑賞した。どこまでが真実かわかりませんが、全てが実際に起こっているとしたら……見る価値あります。

27日
四万十市の職業訓練校の木造建築科を見学して、4日ぶりの温泉につかり、夜はきれいな公衆トイレで寝た。久々に寂しい夜だった。

28日
朝、四万十市から「宇和島方面」とプラカードに書き、小雨の中ヒッチハイクをした。通りがかりの自転車おじさんに、冷たく「誰も乗せてくれん(からやめろ)」と言われたが、心の中で「いや、誰か乗せてくれるわい」と頑固に信じ根気強く待った。
すると、「途中までなら」といって声を掛けてくれたのは定年を迎えた男性だった。宿毛へ向かう途中喫茶店で朝食をごちそうになった。
車内では「若さと一億円のどちらかとれるなら、絶対若さを取る」「人生二度あったら大変だ。一度目に味を占めて、二度目は悪さばっかりするからな~。うまいこと出来てるよ」などと会話が盛り上がり宿毛に着くも、直進し「宇和島まで行ってやる」と言ってくれた。
「退職者の強みは24時間拘束されないこと」らしく50km先の宇和島へ向かってくれた。

高知の幕末の歴史を聞いている内に宇和島に到着するも、車は走り続け「よし!松山まで行こう!」 と言ってくれ、ガソリンスタンドで給油や点検を受け、100㎞先の松山市に向け高速自動車道にのった。
なんと、男性の車だけで松山まで来てしまったのだ。そして中島行のフェリーが出る三津浜港近くで15時の昼食つけ麺をごちそうになり、お別れをした。

こうして僕はまた岡田家にたどり着いた。
皆様ありがとうございます。
私の人生、世にどうお返しすればよいでしょうか?

鹿児島~大分

22日
高速船トッピーの中で爆睡し、雨の鹿児島港に到着した。

目的地はお昼までに霧島市中福良のなぎ君(大工の南君の弟さん)のお家。ヒッチハイクは時間に余裕のある時の手段なので、今回は電車に乗って向かった。制限時間お昼まで、と急ぐのはパン窯作りに参加するためである。

その日、照明保育園の中では作家げんさん主体の窯作りが行われていた。
私はそのことを南君の紹介で知り、屋久島を出る腰が軽くなった。
中福良についてから食べた、アマの詰めてくれたお弁当がおいしくてたまらなかった。

右がなぎ君左が園児のぱぱさん。窯内はライトで乾燥中。

  私は本格的な窯作りのほんの一部に参加させてもらい、その晩は照明寺にお世話になりました。住職さんとなぎ君と3人で霧島温泉に行ったあと、げんさんも参加して美味しい鳥刺しの夕食を頂きました。

23日
午前なぎ君が波を求めて宮崎県にサーフィンしに行くというので便乗した。
カレンダーではまだ冬のはずですが、この日は温く、ビーチでハーフパンツ一丁でいれた。ウエットスーツのサーファーが浮かぶ海面に唯一、上裸で飛び込み人生初のサーフィンに挑戦してみた私。
波乗りなんて見ていると簡単そうだが、やってみると難しさが分かりました。まずボードに座り波を待つポーズができない。そして、波に合わせて漕ぎはじめるも、のまれてしまう。北国育ちの私は雪の方なら自信はありますが、海では惨敗に終わりました。

昼過ぎヒッチハイクで僕が便乗した、餃子屋さん「あんなん」http://www.gyouzamama.com/のさわ子さんと、おしゃべりが盛り上がりながら宮崎市まで送ってもらった。「フェイスブックを始めた方がいい」と説得され、とうとう私も近日中に始めてみようと思います。

夕方、60kmほど離れた日向行の車に便乗し、大分方面に向かった。運転手の日向出身の60代女性が温泉に連れて行ってくれた。温泉から出ると「このまま大分まで行くから、あなたが運転して」と言ってくれ、100kmほど(うる覚え)離れた大分県佐伯に向かった。他人の車は運転してはいけないと分かっていましたが、多くは交通量の少ない山道で助かりました。
佐伯に到着したのは深夜0時のことでした。そのまま夜は軽自動車の中で2人車中泊。
ヒッチハイクで乗せた青年に、ここまで信頼できるなんてと、感心した。

24日
お昼頃運転手の女性に見送られ、佐伯~高知県宿毛へ渡る宿毛フェリーに乗り、15時宿毛に到着した。

屋久島滞在終盤

スマートフォンを持たない私のブログ更新手段は、訪問先でインターネットを借りるしかない。
また、節約旅を選んだ末の移動手段はヒッチハイクで、そこには自分の力は働かず、人の厚意を求め頼るしかないないのだから、まったく感謝の言葉しか出てこない。

早くも3月に入り、私は愛媛の岡田家に到着しました。

2月20日からの激動の10日間を振り返ってみよう。

20日 屋久島 棟上げ

茂さんの下で木材の刻み作業に加わっていた、建物の棟上げが行われた。依頼者はガイドの田平さんが社長を務める「旅楽」http://tabira.biz/ の事務所兼ショップの建物。
朝8時。本日晴天なり!
昼食は旅楽さんの提供してくださった、「かもがわ」の豪華弁当に興奮

長細い種子島が視えました。
棟梁の茂さんアールの効いた梁(はり)がお気に入り。こだわりは地杉100%使用

破風板(屋根の端)の形は僕の意見も採用されて中央下面が曲線に。
カヤックの専門ガイド「スピニカ」http://yakushima-kayak.com/のあきらさんも参加して下さいました。
夜は濱岡家で茂さんと組んでいる大工の南くんの奥さんの瞳さんの誕生会をした。
床屋「ニューツカモト」のオーナーとも君も釣ったイカを振舞ってくれた。

21日
屋久杉自然館で山下大明氏の写真展「月の森」http://www5.ocn.ne.jp/~yakumuse/が開催されていて、山下さんが時間をとってくれ3時間弱お話をしました。山下さんは屋久島の電力事情を「屋久島型」と呼び、誇り高く考えていた。屋久島型は民間の会社が水力発電で電力を握っていて、そこから地区ごとに九電や農協が買う、稀な仕組みになっている。

実は私が屋久島に行く前、岡田家で見た山下さんの写真集「樹よ」を見たとき、「この方に会って、山に連れて行ってもらおう」と考えていた。しかし、お会いできたのが出発前日というのは悔しい。「今度来たときは、是非ご一緒させてください」と強くお願いした。

夜は田平邸で棟上げの打ち上げに参加した。

22日
朝7時の茂さんと南君に見送られながら高速船トッピーに乗り込み鹿児島へと出発した。