2011年6月30日木曜日

今朝目が覚めて間もなく携帯電話が鳴った。着信は山形の師匠川崎吉巳さんからで、「今、石巻に着いた」との突然の連絡であたふたしているうちに事務所に到着。訪問の目的は情報ステーションとなるお宅(被災していて、今はまだ使用できる状態ではない住家)の下見でした。情報ステーションとは在宅避難民を対象にした憩いの場で、行政の情報や温泉ツアー、炊き出しや○○教室などの拠点を被災した住宅地の中に設けるといったプロジェクトです。
吉巳さんは自分の時間を削って昨日の夜のうちに仙台まで来て、今朝下見をし、間もなく山形へ帰って行きました。遠く離れている人がここまでしてくれるのに、現場にいる僕は今まで何してきたのだろう?と自問し、「もっと頑張らんといけんな」と気持ちを入れ替え、情報ステーションの大工+大掃除に没頭しました。ヘルメットを装着し、防塵マスクに半袖短パン、青いタオルを首に巻き汗をかっきぱなしの一日でした。
完成予定日は未定ですが、出来ることを見つけ早く機能させたい思いです。

2011年6月29日水曜日

今週の料理長

 先週までいた8班は男性4人で毎食おいしい料理を作っていただいたのですが、今週は炊事大好きな学生料理長(石森君)がひとりで腕をふるっています。誰かが手伝おうとしても「足りてる!」の一言で料理長の座を譲ろうとはしません。
とんとんとんとんとんとん、と炊事場から聞こえてくる包丁の音からはゴッツイ少年石森君の姿ではなく、夜なべをする母の姿が連想されます。今晩の料理はちょっぴりしょっぱめの肉じゃがです。それでは夕食にいたしましょう。

時代の流れ

 昨日は小国町から武さんとそのお友達が様子を見に来て、これからの支援活動への方向を相談した。
こうしてNGOで働いてみて知ったのは、いかに人とコミュニケーションをとりその一人ひとりのニーズに沿って企画を立て、実行することの大切さです。逆の言い方をすると「余計な手出しはするな」ということです。今の状況からみるとNGOがいなくても、住民同士で協力すればなんとか生きていける段階には来ていると思います。その中で本当に求められていることを取り組んでいかなければなりません。

以前から、日本の復興の話になると「元の日本に戻そうとする力」「これで変われなかったらあと100年は変われない」「もうすでに以前の日常に戻ってしまった」などの言葉を耳にします。その一方では反原発デモなどが起り従来の流れを変えようする動きもあります。それらの流れをどこに引いていけばよいのでしょうか?

高校三年間で神の名のもと暮らしてきた私には、その流れの行き先が‘天”としか思えないのです。見えるものへの応答ではなく、見えないものの要求に対する応答をしていきたい。

2011年6月27日月曜日

最近のプロジェクト

 25日から酪農大ボランティア最後の9班が石巻入りしました。また同日、北海道大学の博士課程を休学し秋から青年海外協力隊でスリランカ(まゆみさん)とガボン(あつし君)に行く方々も合流し活動しています。北大チームが運んできたプロジェクトは゛在宅避難者と花を通じて繋がる゛という、癒し系企画です。内容は希望のあった家庭にお花キット(プランター2つ+土+苗)を配り、1つのプランターをプレゼント用で、もう1つは後で回収し集会場を花で囲い、気持ちいコミュニティースペースを作るといったものです。そのために今日は、指定した地区の被災した自宅を一軒一軒回って、お花キットの申込用紙を書いてもらいました。その反応は人それぞれでうれしそうに喜ぶ人もいれば、断る人もいます。
早速あしたには希望家庭に配り、これからはその花が懸け橋となって人と人をつないでくれることでしょう。

2011年6月24日金曜日

突然ですが・・・・

 こうしてパソコンの前に座る時間が増えた石巻での生活ですが、3月までは山と田に囲まれた生活をしていました。特技はモリを使った魚突きで夏になれば「渓流が学校」と言わんばかりに、時間を見つけては通っていました。男子寮の蛇口からは3cmくらいの川虫が出たり、梅雨時期には湿気で廊下に水たまりができたり、部屋にはツバメが飛び(友達に入れられた)アリが巣を作り・・・・・といった日本じゃないみたいな生活でした。
自分でもこうしてブログを投稿する生活を人生の内に経験するとは思っていなかったのです。日記を書く代わり、みたいなところもあって自分にとって良い記録になっています。毎日100人前後の人が見てくれて書きがいもあります。
ただ、自分が本当に感じているのか、人に伝えるために感じている気になっているのか分からなくなることがよくあります。自分の心を通さずに言葉にすることを焦って(毎日投稿しなきゃ!)しまいがちになっています。急に始めたことだから自分がブログに巻き込まれていっているように感じてならないのです。道具は使いようなので正しく使えるようになるまでは時間がかかりそうです。

2011年6月23日木曜日

物欲によって

21日から梅雨入りした石巻も今日は快晴で暑く北海道組にとっては苦しい一日でした。
日中は市内鹿妻地区の公園で「チーム 築地 ウェメン」主催の無料バザールのお手伝いに参加しました。全国から築地に寄せられた食器や調理器具、日用雑貨品をブルーシートの上に並べお一人様5点までで、20人づつ何度でも並んでOKという一応のルールを作って対応しました。日本のお家にならどこにでも眠ってそうな物が大集合しました。
思い返してみると4月20日ごろに石巻市内を見学したときも津波で浸かったお家からは山のように生活雑貨や電気製品のゴミが積まれてありました。その光景を見たとき日本人の暮らしぶりをまとめて見たような気がして、この国の価値観を「どげんとせねばいかんばい」と思ったのでありました。自分にも物欲は強くあり、ついつい増やしてしまいますが掃除のときに改めて見ると使ってないものがほとんどです。
私は今日のことを「新品のゴミを渡した」と言うわけではないし、提供した人の善意によって困っていた人が喜んでくれる姿を見て嬉しくもありました。ただ、

「車を流せなかった人はみんな死んだ」
生き延びた人は口々にそう言います。今回の悲劇を繰り返さないことが、亡くなられた方々に対してできることだと思うのです。僕は目に見える物によって左右されていないだろうか?と問うてみます。


2011年6月21日火曜日

朝の美しさは、

早起きさんへのごほうびよりも、

まだ眠っている子どもたちをつつむ

神様の表情

その愛のまえで
私はただ黙りこむ

2011年6月20日月曜日

単純に嬉ちー

離れていても僕の誕生日を覚えて、祝ってくれる人がいて嬉しーです。
何歳までかは分からないけど、生きれる限り生きつくしたいです。

今日は一日事務所の裏にある小学校のシャトルランの音を聞いていました。
子どもたちが自由に校庭で遊べるような土地にしていかねばならん!


おめでとう!

少年お誕生日おめでとう!

少年にとって良い歳でありますよう、少し離れたところから祈っています!
(スリランカにいる兄より)

写真多し!19日日報

石巻市より北東にある相川子育て支援センターに酪農大4名と環境ネットの久美さん、パルシックからは日方さんと僕、特別ゲストに石巻からよしみさんを含めて8名で9:40に出発しました。
メインメニューは山形県小国町の川崎米農家さんのもち米を使ったずんだ餅です!

僕は高校時代の米部部長の肩書きを背負って今回の企画長として気合を入れ今日という日に挑みました。

今日は東宝の映画「わんこの島ロック」の試写会が相川子育て支援センターであり主演の佐藤隆太が来るということで、企画段階からワクワクしていました。下の写真は彼が差し入れしてくれたミスタードーナツとすねてる女の子。


避難所のおばあちゃんの参加もありその場の雰囲気はとっても盛り上がりました。
おばぁの頭が近くて佐藤隆太も恐る恐るきねを振りおろしていました。
出来たてのずんだを配り、みんな大喜びでした!
千葉県房総半島からおいでの「安房なのはな隊」もお餅をついてお雑煮を出したり、特産品の琵琶や甘夏をた~くさん配っていました。お昼過ぎからは演奏会も始まり楽しい交わりができました。

今回の炊き出しは振舞うだけではなく、「参加型」で出来たことがとってもやりがいを感じる要点でした。また、何度か来てることもありお母様方から「兄ちゃん待ってたよ」と声をかけて下さり、とっても嬉しかったです。


夜には石巻事務所のメンバーと久美さんでぼくの19歳の誕生日を祝ってくれました。
6月20日が僕の誕生日です。一年後も健康においしいものを食べれていたら・・・と願っています。


2011年6月18日土曜日

東日本大震災から100日






















3月11日から今日で100日が経ち、現地の問題点も時間と共に変わり、いま住人を悩ましているのは汚物から湧き出るハエの問題です。昨日16:00ごろ、酪農学園大学の先生がハエ駆除のためペットボトルを仕掛け、本日11:00ごろに結果を見に行きました。ひとつは殺虫剤のスミチオンにジュースを混ぜた液と、もうひとつは通称気仙沼液(酢50CC+日本酒70CC+砂糖100g)で対象実験を行いました。結果は歴然気仙沼液の大勝利でした。

その後、酪農大7班も石巻を旅立って行きました。休みが入ったこともあり触れ合う時間が短かかったですが、蒔田先生はじめリーダーのみっちゃん、グリコ、前たくは初めからリラックスしていてその場を盛り上げてくれました。特に食事に関しては毎食力を入れていてとってもおいしし一週間となりました。ごちそうさまでした!







お昼には8班が到着して急いで法音寺の「慰霊と復興への祈りコンサート」の会場ヘルパーに参加しました。百か日の法要のあとに江口玲さんのピアノコンサートがあり、ひとつの区切りとして自分自身を省みると、被災者と支援者の関係でしか触れ合えて来なかったと思いました。「してあげる」だけでは長続きせず疲れてしまったので、「一緒に取り組む」といった個人と個人のつきあいで長く友達でいたいな~と言う感じに転換して再出発しようと思いました。この世に与えた外山晶浩をそのまま提供できたら、と願っています。
読者でもある相ケンさんがTVの中の言葉を引用して言っていた「2万5千人が亡くなった1件の事件ではなく、1人ひとりが亡くなった2万5千件の事件だ」という言葉に、それぞれの人生があり、それぞれのつながりがあったことを少しだけど具体的に想像することができました。
観光地化し始めているこの土地に立つ者として、それらの事実を覚え他者への心配りを忘れてはいけないと胸に刻む思いであります。

2011年6月17日金曜日

休暇からの帰宅

どうもこんにちは、休暇明けの外山です。
14日の夜、東京へ帰る石川さんと徳さん夫婦(炊き出し隊長)を車で仙台駅に送ってから、僕は休暇に入りました。予定では山形市内で一泊してから翌朝、独立学園のある小国町に帰ろうと思ったのだが、月明かりもきれいだし、帰ることにわくわくしてきたのでその日の内に小国に向かいました。
小国に着いたときには0時を過ぎていて、節電の影響もあり町や村は人影を感じさせないほど真っ暗でした。車を降りようとデジカメや携帯、名刺(人生初名刺)の入ったカバンを取るため助手席に手を伸ばすと、カバンが無いことに気付いた。思い返してみると、途中で寄った山形市内の徳さん宅に置き忘れたことが分かった。休みの活動をブログに投稿するのを楽しみにしていたのだが、そのわくわくが返ってあだとなった。
僕の母も今年3月のさよなら音楽会(卒業式前日の3年生の晴れ舞台)に向かう途中で寄ったガソリンスタンドにカバンを置き忘れて、予定より大幅に到着が遅れ、悔やんでいたのを思い出し、「あの母あってこの子あり」と、つくづく感じました。

休暇中は川崎米農家に泊まりながら、恩師の助川先生とヒメサユリを見に行ったり、担任面談をしたり・・・・。後輩女性からは「夏休みに私たちも何かしたい」と言ってもらえて、僕としてもその熱意を活かした企画を組み、応援したいと思いました。多くの人に会い、胸いっぱいの好意を受け取り、今日石巻に帰ってきました。2日間の小国休暇は、被災地から離れ今後どうしていきたいかを考える有意義な時間となりました。みんなありがとう!

2011年6月14日火曜日

在宅被災者、置き去り/防災計画、見直し急務

おつかれさま。毎日、事件簿をチェックするのが日課になってきました(笑)
自分自身が同じ年だったときに、外山君が書いているような文章は書けなかった
と思うよ。
すでにチェック済みかもしれませんが、外山君、そして酪農大の学生さんたちの石巻市内の「在宅被災者」への活動が一歩先を行っているでは?という 河北新報電子版の記事(6/10)がありましたので転載します。

では、頑張って!
また会える日を楽しみにしています。(伊藤)
----------------------------------------------------
東日本大震災では被災後も自宅生活を続けた「在宅被災者」に、食料や物資が届
かないケースが続出した。震災発生から11日で3カ月。多くの自治体 は在宅
被 災者数の調査もしておらず、実態は今も不明のままだ。各県の防災計画が
「避難所にいる被災者」を前提に被災者対策を考えていたことが原因とみら
れ、防災計 画に「在宅」の視点を加える見直しの動きが始まっている。(若林
雅人、武田俊郎、東野滋)
◎食料・物資届かず、実数すら不明
宮城県の地域防災計画は「避難収容対策」の項目で「給水、給食などの救助活
動が可能」な避難所の確保を市町村に求めている。一方、在宅被災者に ついて
は、高齢者や障害者など要援護者の把握と災害時の安否確認を求めている程度。
在宅被災者全般への対応に関する記載はない。
県危機対策課は「在宅被災者の位置付けは、避難所の被災者と同じ。在宅生活
で支障があれば、避難所に避難してもらうという考え方だった」と説明 する。
岩沼市など市町が各行政区に物資を届け、区長を通じ在宅の住民に配給した例
もあった。しかし市町任せにした結果、配給の有無で格差も生じた。同 課は
「被害があまりに大きく(避難者が多すぎて)在宅被災者に目が向いていなかっ
た面はある」と認める。
県は2010年度に宮城県沖地震に備えた新たな被害想定調査を始め、12年
度から地域防災計画を改定する予定だった。今後の改定で「在宅者対策 は大き
な課題の一つになる」(危機対策課)としている。
岩手県は避難所で食料や物資の供給を受けている在宅被災者を「在宅通所
者」として集計。4月初旬には約2万4000人だった在宅通所は現在、約1
万 1000人に減った。県災害対策本部は「ライフラインの復旧などで避難所
に通う必要がなくなった分が減っている」と説明する。
県の地域防災計画は在宅被災者を特に区分していないが、県総合防災室は「今
後、何らかの形で(在宅被災者対策を)検討する」と話す。
大規模地震が予想されている全国の他地域では、今回の震災を踏まえて在宅被
災者対策を含めた防災計画見直しの動きも出てきている。
東海地震に備える愛知県の地域防災計画は、避難者や災害時要援護者対策の一
環で「在宅者対策」の項目を設けている。だが要援護者情報の共有など 事前準
備に関する内容が中心で、震災時の具体的な方策までは示していない。
県防災危機管理課は「今回の震災で在宅被災者に情報すら行き届かなかったと
の話を見聞きし、東海地震でも同様の状態になるかもしれないと感じ た。震災
で見えた課題の検証と防災計画の見直しを進めたい」と話す。
国も実態把握に乗り出した。内閣府は現在、被災自治体に在宅被災者数などを
問い合わせており、6月中旬にも全体の状況をとりまとめる方針。
内閣府被災者生活支援チームは「自治体が把握しているかどうかも不明だが、
物資も情報も届かない状態を避けるため、まずは把握に努めたい」とし ている。
◎在宅被災者置き去り/自宅で苦闘
東日本大震災の発生から11日で3カ月。地震や津波の被害を受けながらも、
自宅を離れられなかった「在宅被災者」に、公的な支援は少なかった。 被災者
たちは、食料や水の調達など多くの苦難を乗り越えてきた。
<宮城・南三陸/食料届かず焦る日々/寝たきり連れてゆけぬ>
米粒は白く光り、抜群のおいしさだった。
「涙が出そうだったよ」。宮城県南三陸町戸倉の後藤さえ子さん(59)は、
訪ねてきた秋田県のボランティアからもらった、おにぎりの味が忘れら れない。
海まで約200メートルの高台にあった自宅は玄関先まで津波が押し寄せた
が、奇跡的に難を逃れた。地区のほかの家は大半が壊滅。住民らが避難所 に身
を寄せる中、後藤さんは夫(63)とともに自宅にとどまった。
「96歳の寝たきりの義母を、避難所には連れて行けなかった」
近くの川に水をくみに行き、まきをくべて釜で米を炊いた。慣れない作業で、
べちゃべちゃしたご飯にしかならなかった。冷蔵庫にあった魚や肉も1 週間ほ
どで尽きた。
同じころ、避難所に物資が届き始めたが、量は少なく、住民らは互いに持ち
寄った米や漬物でしのいだ。秋田のボランティアが訪ねてきたのは、この ころ
だ。「当時は生きた心地がしなかった」と振り返る。
2週目に入ると物資の量が増えてきた。町の指定避難所に届いた物資は地区の
自主避難所にも分配され、後藤さんも受け取ることができた。
電気は震災から2カ月近くたった5月上旬、簡易水道も6月に入ってやっと復
旧。ようやく生活が落ち着いてきた。
避難所で物資が余り気味だという話を最近、よく聞く。「本当に欲しい時に
は、なかったけれどね」。後藤さんはつぶやいた。
<石巻/水上生活、情報過疎に/母は通院、店は再開未定>
石巻市水明南1丁目の鮮魚店経営菊地秋男さん(60)は妻みはるさん
(58)と相談し、自宅にとどまることを決断した。人工透析を受ける母親
(90)が、避難所の暮らしに耐えられるかどうか不安だった。
地区一帯は、旧北上川をさかのぼった津波が堤防などから漏れ出して浸水。菊
地さんの店は保冷庫や商品棚などが流されたが、店と棟続きの自宅は床 下浸水
にとどまった。水が引くまで4日間、「水上生活」を送った。
避難所には行かなかったので、避難所でどんな支援が得られたのかは、想像も
できない。
母親の通院や食料、水の調達には幸い、浸水を免れた車を使うことができた。
煮炊きにはストーブを使ったが、ガソリンや灯油が入手しにくい状態が 続き、
「毎日、ハラハラし通しだった」という。
電気が約1カ月間も途絶える中で、困ったのは情報の入手。ラジオが頼りで、
身近な施設の復旧見通しなどの確かな情報がなく、不安と心細さがこた えた。
店のシャッターはこの3カ月、一度も開けていない。生活再建には、やはり本
業の再開が不可欠だ。店舗の改装が済めば、店頭販売も始められるが、 業者は
復旧工事の依頼が殺到し、いつ改装できるのか、まだ見通しが立たない。
「年内に営業再開できれば…。石巻は水産の街、魚の街だから、頑張らない
と」と菊地さん。まだ浸水の跡が残る店舗で片付けに追われている。

仕事って難しい・・・・・

 社会人一年目の僕にとって毎日の仕事って結構大変だったりするんです。
長く続くようなペース配分だったり、状況に合わせた対応やその中での生活そのもの・・・・。
もともと大したことができるわけではないので、周りにはたくさん迷惑をかけています。
もっと頑張んないとと思っていても、手を抜いてしまったりするんです。
でもそんなときは、「同級生だってそれぞれの地で新しいことと向き合いながら生きているんだ」と振り返るんです。そうすると甘えてちゃだめだって、ちょっとプレッシャーをかけて腰を軽く働き、頑張った日には自分をほめる。基本的に僕は自分に甘く生きてきました。

2011年6月12日日曜日

8月に、また来ます!

  朝起きるとがっつり雨が降っていて、「今日はゆっくりと休めそうだ」と内心おもっていたのですが、お昼ごろには快晴の空!天というのは手厳しいものですね。でもまぁ、晴れてくれてありがとう!
そんな暖かいお昼どきに酪農大6班は北海道へ旅立った。ちょっぴり(?)わがままなチームではあったけど、とっても楽しい一週間を過ごすことができました!帰り際には「8月また来るからね」とか、「一年後に一緒に旅行行こう」と誘ってくれたりして、ぶーぶー言いながらも充実したのかあなって思いました。6班の皆さん過去にならないうちに感想等々投稿してくださーい!

2011年6月11日土曜日

お届け物

今週、力を入れて酪農大6班と調査した湊町の方がたに物資を配布しました。
上のお宅は、先日ブログに書いたろうそく暮らしの老夫婦にソーラー電気を届けた写真です。おじいちゃんは「こんな生活戦争以来だ。でも、津波は来たら終わりだけど戦争はそうじゃない。戦争はうまくない」と言っておりました。部屋に電気がついたことをとっても喜んでくれました。

下の写真は母校の音楽教師武先生から届いた夏ミカンと虫の殺虫剤を配った写真です。
喜ぶ被災者の姿に励まされ、充実感からはしゃぎ出す酪農大生。そして、「おうちが治って住めるようになったら、おいしいもんご馳走するから、絶対遊びに来い」と言ってくれる被災者が1人ではなく何人もいます。酪農大生の働きからは、確かな手ごたえを感じています。
また昨日は配給を受けれてなかった方を見つけ、その日の内に配給を貰えるようにしました。
明日の6班の出発を前に大きなものを届けることができたような気がします。

2011年6月10日金曜日

がんばれ少年!

疲れていたんだね。
昔、誰かさんのものまねでこの写真と同じ格好していたけど、
まさか今回少年自身がこの格好するとはね(笑)。
ではあまり無理せず、適度に無理して!?
(石川)

ヒヤリング能力低し!!

  聞き込み調査にも充実する聞き込みもあれば、そうでないのも結構多いいんです。
そのヒヤリング能力の低さに、石巻事務所は苦しんでいます。
そう、その原因はなまりです。
ここ石巻はなまりが脈々といきていて一般人も普通になまっていますが、特にすごいのは漁師同士の会話です。彼らの会話の8割は何を言っているのか分からない。ヒヤリングの対策は量を聞きまくるしかないと思っています。
今日習得したしたのは「ほれ、食べラィン」和訳「どうぞ、召し上がってください」でした。
リピート・アフター・ミー「ほれ、食べラィン」「ほれ、食べラィン」皆さん言えるようになったかな?
それではまた来週!バイバ~イ 

2011年6月8日水曜日

石巻事務所に新しい風!

パルシックTシャツを着て、いざ出陣!
僕の所属しているパルシックの活動も3ヵ月目に入っていますが、また新しい風が吹き始めました。パルシック東京事務所でお仕事をしていた日方さん(27歳女性)が、カトシュン+酪農大の愉快な仲間たち(石巻組み)と合流し、同じ釜の飯(最近は避難所からいただいた支援物資のパンやおにぎり)を食う生活が始まりました。
 また、石川さんも祖国スリランカへ帰る前の一仕事のために合流しました!一週間後には出発をしてしまうので電話は国際電話になる前に!

と、我々の環境は変わっても・・・・・


昨日、今日は市街の被災地(湊町周辺)調査に行ってきました。そこには、まだ瓦礫の片付かない住家に3.11から20cmのろうそく3本で夜を過ごし、中学校から運んだ水をしちりんで沸かし、買い物のために慣れない自転車を一時間もこぐ70代半ばの老夫婦が住んでいました。最近では朝方3時から4時にかけて隣の家屋に入る泥棒を5回も見て、そのうちの2回は30代後半の男性が2日にわたって空き巣に入っていたと話していました。周辺に在宅避難者はいなく、亡くなられた方も多く、その方がたが苦しんでいる夢を見て2カ月もの間うなされていたと言っていました。
長期でかかわっていく必要がありそうだが、まずは後日にソーラー電気を配達しようと思います。

昨日はここに20人ほどの警察官と一台の箱型3t車があり、担架に乗ったブルーシートが
トラックに積まれた後に整列して合掌。自衛隊、警察官の方々本当にお疲れ様です。

クリーン大作戦

7日は待ちにまった外山晶浩の新企画、早朝ゴミ拾い大会が開催された!
内容は週2回の可燃ごみの日(火、金)に6時から7時までゴミ拾いをボランティアさんたちを巻き込んで行う。
狙いは地域貢献を足元から始め、継続的に行うことで近隣住民の理解、信頼を得ていきたい!
以前にも1度だけやったのだがなかなか2度目が開催できなかった(怠けモード)ので、日時を決めて継続的に行えるように、企画化をしました。みんな黙々と拾っていて、日常の中にその考える時間をもつということも、とっても大切なんじゃないかって思ったのであります。

2011年6月6日月曜日

側溝掘り作業

天気が良かった昨日は一日中市内の側溝掘りをした。
肉体労働は疲れるから長期の活動には避けたいところだが、酪農大6班と初めてする活動ということもあって「やるぞー」と気合を入れて参加した。初めに参加者計110名ほどで集合し、そこから10班に分かれ住宅地の側溝のどろを掘りだし、土のう袋に詰め4tダンプで運び出す。
水に沈殿した泥をシャべルでほじくるといろんな油が浮いてきて、油のにおいが服に付く。

僕の印象ではボランティアさんも2カ月近くテント生活、連日作業のせいで疲れていて、無理にハイテンションになっているように見えた。ボランティアさんも長期の態勢に切り替えなくては夏にかけて倒れる人が出てくるのではないだろうか。

普段おとなしい生活をしている僕には久々の泥かきはリフレッシュにもつながり積極的休養といった具合に過ごすことができた。

2011年6月4日土曜日

震災当時の話

 以前、60代のお母さんから聞いた話が僕の中からはなれません。

それは震災当時の話でした。

地震が来て高台に逃げている最中、あるおじいさんが「家に数千万を置いているから」と言って取りに戻り、帰らぬ人となってしまった。

水が引いた数日後そのおじいさんの家には人が群がったという。

カトシュンの優しさに触れた

 そうそう、僕がここで仕事をするうえで欠かせない存在がいます。
それが、カトシュン!自称僕の2才年上のお兄さん?
初めは「よくわからないなー」と思っていたのですが、一緒に行動するようになってからは、面白い人また優しい人に変わってきました。そのカトシュンの優しさにまた僕は救われました。
昨日は天気が良かったのですが自分の希望により、事務所での制度などの自主学習をすることに決めたのですが・・・・・いままであまり文字に触れてこなかった私が固い資料を読んでもさっぱり読み解くことができず、だ ら だ ら と時間を過ごしてしまいました。
夜、そんな1日だったと報告をして、切り替えて明日からやり直そうといつもより早く寝ようと寝室(カトシュンと共用)の豆電球をつけていたらカトシュンが来て「おやすみなさい」と言って電気を消して仕事に戻っていきました。その表情はいつもの優しいカトシュンだった。
許してくれてありがとう

2011年6月3日金曜日

再出発する二児の母

徳永美嘉さん率いる「つながる炊き出し隊」ファイヤー
今日の炊き出し隊の活動はhttp://tunagarutakidashitai.blog.fc2.com/ にて報告いたしますので、ご覧ください!! 
僕も炊き出しに参加する予定だったのですが ・ ・ ・ ・ ・ 突然、石巻市内の半壊借家の片付けのご依頼が入り、炊き出しは酪農大生にまかせ自転車で事務所を飛び出しました。※市内は渋滞しやすいことや裏道を見つけたことなどから車よりも自転車の方がかえって早いということが分かってきた。
ご依頼のあった方は、2人の娘さんを1人で養う母子家庭の40代女性でした。今は避難所の小学校で生活していて、以前から暮らしている借家の大家さんに今日になって「工事が入るから片付けろ」と言われてしまって緊急で人が必要とのことでした。片付けは順調に進み、お昼ごはんを避難所のダンボールで仕切られた家でお米、さつま汁、白身の焼き魚が支給されいただきました。
お話のなかで分かったことは、震災によって失業してしまって今日もハローワークに行く予定だったこと。しかし、パソコンが全く使えないのでなかなか就職が難しいことや、4月に個人的に配給された3万円以外の義援金は申請したが、いまだに振り込まれていないことなどが分かりました。作業中にも大家さんに5月分の家賃請求(普段の半額)をせかされていました。
収入のない母子家庭など、生活への自立が不利な方に対する制度や条例などはないのでしょうか?なにかいい情報がありましたら教えて下さい。
来週にもそのお母さんにPCの使い方講座を企画予定しています。
支援をするには正しい情報を理解していることが最低条件だと強く感じています。明日は雨が降りそうだから勉強タイムにあてようかな~

昨日訪ねた北上町にっこりサンパークに立ち並ぶ仮設住宅
計66世帯が入居することができる。
5月中旬に完成予定のはずだが・・・・・まだ作業中であった

2011年6月2日木曜日

つながる炊き出し隊活動報告

5月27日(金)
今日は60人の方が避難されている広渕小学校に行ってきました。前もって伺っていた要望にこたえ山形の牛丼を用意して行きました。年輩の方が多く『肉より刺身がいいな!』との声も聞かれましたが、牛丼もおいしいと喜んで下さいました。石巻や北海道の職員の方、小学校の先生型も一緒に召し上がりながら、山形のさくらんぼ、温泉の話に花が咲きました。昼食は自炊もしているとのこと、野菜の希望があり、届けることを約束しました。

5月29日(日)
今日は三重県から今、届いた小松菜、大根、わかめ、お茶を持って4か所の避難所に届けに行きました。
これらの支援物資は三重県の「はらぺこ青虫」という有機野菜のお店の西木さんの声かけで、支援物資を送りたいという想いを持った方々から送られてきたものです。なま物なので出来るだけ早く、そして大切に届けたいと思いました。先日伺った広渕小学校、そして相川子育て支援センター、蛤浜集会所、峰耕寺、皆さん野菜に対する要望が大きかったとのこと、とても喜んで下さいました。 蛤浜集会所と峰耕寺には6月2日木曜日、相川子育て支援センターには6月12日日曜日に炊き出しに行く予定です。

5月30日(月)
今日の石巻の天気は大荒れ、専修大学のテント村のテントが全滅し、渡波炊き出しボランティアメンバーも渡波小の体育館に避難したということでした。

昨日、支援物資を送って下さったグループから今日は渡波小に多量の野菜が届けられたとの報告を受けました。この野菜は、グループの農家さんが雨のなか収穫して下さったものを、声かけで集まった多くの方の協力で掃除をしてきれいにして送ってくださったものです。
また、「震災イベントの収益全てを野菜の送料にあてて下さい。」との寄付もあり、そのようにして野菜は送られてきました。

「つながり」が少しずつ広がっている事が実感できてうれしくなる瞬間です。
(徳永)

2011年6月1日水曜日

あっ、6月だ

かれんさんご報告ありがとうございます。かれんさんは石巻に来たことで方向性を変えられたしまったのですね。
4班の中山君からも7月下旬に手伝いに来てくれるとの連絡が昨日ありました。皆さん学業の合間に被災地に来ちゃうだけあって抜群の行動力の持ち主ですね(笑)
他にも地元での様子や変化がありましたら気軽に投稿してください。bloggerとしての栄養素は「返信」ですので、よろしく!

今日から6月に入りましたが、皆さんにとって東日本大震災からの日々はどう流れていますか?
僕が震災を経験したのは山形の高校の校舎2階で、3月14日のさよなら音楽会に向けて歌の練習をしているところでした。その時から予定が屈折し続けて、ここで暮らすようになりました。ある人に「この経験があなたにとって偶然で終わるのか、必然と言えるのかはそこで本気で生きない限り観えてこない」
と言われた。
新しい月を意識的に丁寧に過ごそうと思う。

お久しぶりです

お久しぶりで〜す
第2班の中村です(^ω^)

最近の様子を報告しようかなーと思います

今わたしは
[ぽちぽちプロジェクト]というものに参加しています笑

どんなプロジェクトかと言うと、東日本大震災の津波の被害によって流出してしまった家屋をPCに打ち込む作業です。
ちなみに、酪農大学は石巻・大船渡(約6万件)担当です。

先週、金子先生(環境GIS研究室)に手伝わないかと誘われました。
気の遠くなるような作業ですが日々PCと向き合っています(笑)
もちろん石巻エリア担当です(^^)v
こういった形での関わり方も大切だなと思いました。

興味を持った方は
「EMT」と調べてみてください。色々と詳しく載っています。


中村

ばたばた

今日は一日充実していました。というか、やるべきことはまだのこっているのですが・・・
まず6月2日の「つながる炊き出し隊」のために空のガス缶を3本渡波小学校に配送した。
昼に山形小国から船山ガスさんが輸送と回収をし、夕方にはカトシュンが取りに行ってくれました。船山さんはガスを無償で提供し続けてくれています。被災者に温か物を配れるのはそういう人がいてくれるからなんですね
ありがたい




そのあと大門町の葬祭会館ほたるに寄り道をした。目的は2週間前(?)くらいに配った花壇用の土がどんな花を咲かせているのか気になっていたからである。以前、パンジーの苗が植えられたことを知って、近くに来るたび見に行きたいと思っていた。残念なことに昨日の暴風雨のせいもあってか花は終盤でしおれ始めていた。しかし支配人も欠かさずに水やりをしてくれていると聞いてうれしかった。道路をはさんだ向かい側にある墓地はまだ片付いていなかった。あの津波で大切な人を失った人の中には、墓地に花をお供えすることもできない人がいることが容易に想像できた。

長かった一日のひとこまだけを紹介しました。
これが満潮時の冠水