2012年1月29日日曜日

古竹家

27日
  伊万里市黒川の大平山の山頂に住家・牛舎を構える古竹さん。約150頭の和牛を飼育している。      
 和牛の飼育というのは、300㎏の子牛を30~35万で買い、20ヶ月の間濃厚飼料を中心に食べさせ800㎏~900㎏ほどまで太らせる。売値は90万前後で出荷される。飼料の価格高騰や、牛肉は贅沢な食べ物なため、近年は消費量が右下がりだという。

残念ながら明日香さんは福岡で暮らしていて、再会は果たせなかったものの、同い年の正和と高校1年の亨と出会うことができました。


ちょうど28日(土)と29日(日)は正和の農業試験場の仕事が休みだったため、伊万里散策に連れて行ってくれた。初めに行った道の駅で、伊万里は米・海の幸・果実・伊万里牛・野菜など食材豊富な県だと知りました。また、伊万里焼の産地「大川内山」にも行き、石の敷いてある上り坂に並ぶ陶器屋さんや登り窯を見学した。
伊万里は街の規模は小さく、棚田がきれいに耕作されており、山も手入れがされている立派な田舎という感じです。


正和とは牛の世話や犬の散歩、キャッチボールやご飯などいつも一緒に行動した。今回初めて会ったとは思えないほど、親しくさせてもらった。田舎もん同士息が合い、どこか懐かしい感覚がした。

うまかご飯もいっぱい食べさせてくれた。

明朝、正和の出勤する車に同乗し古竹家を出発する。目的地は「長崎」だ

SAGA佐賀

やっと更新することができました。

そうそう、振り返ってみると、24日は広島平和祈念館だ!世界の原爆・水爆の現状に衝撃!核抑止論の愚かさに愕然(がくぜん)としてしまいました。
その晩は田村家のパパ・ママ・マナ・マリの4人で過ごし、25日朝ヒッチハイク用の水性マジックをいただき、パパママがいつまでも手を振ってくれて僕は出発した。

25日
広島市内から「下関」を示したプラカードを出し、親指を立てつつ、とぼとぼ歩くこと3時間。やっと止まってくれた1台目の車はバイク屋さんのお父さんで30kmほど進んだ大竹まで送ってくれた。
車から降りて3分後には2台目のトラックに乗り、間もなく山口県に入り、錦帯橋のそばを通る国道2号線を西へ。玖珂(くが)のガソリンスタンドで降ろしてくれた。
その後も、スピードが速く、交通量の多い2号線沿いでヒッチハイクをし続ける少年に同情したトレーラーの運転手、土井さんが福岡県の小倉まで送ってくれた。夕食にはちゃんぽんまでごちそうしてくれた。その晩は雪が舞っていたため、一泊1,480円のネットカフェに泊まることにした。心配してくれた土井さんがそこまで見送ってくれた。ネットカフェだと言うのにブログを更新する気力もなく深夜0時眠りについた。

26日
朝8時小倉のネットカフェを出て、まずは歩き始めた。八幡製鉄所の八幡を過ぎて10kmほど進んだ黒崎で、プラカードに「福岡」と書いてヒッチハイクを始めた途端、真ちゃん今ちゃんが止まってくれた。2人は奈良から熊本めざし、下道だけで旅しようと試みる青年。道中3人で、太宰府天満宮を参拝し梅ケ枝餅(うめがえもち)と博多ラーメンを食べた。
鹿児島まで続く国道3号の標識が佐賀に入ったことを知らせてくれた。3号線から長崎方向に分かれる34号線が始まる鳥栖市で2人と別れた。
目的地は伊万里だったがプラカードはその先の「長崎」に書き換えた。すぐに止まってくれた運転手の石丸さん(32)はその日が誕生日だった。そして、本人も19歳のころにヒッチハイクで岡山の大学から佐賀の実家まで帰ったという。32歳の誕生日の日にヒッチハイカーを乗せる立場になれたことを喜んでくれた。臨床工学技士の石丸さんのブログでも、僕を紹介してくれています。
http://sagacet.blogspot.com/
佐賀市を過ぎた小城市のセブンイレブンで夕食のハヤシライスを買ってくれて、午後4時ころお別れした。

帰宅ラッシュの夕方にはなかなか車は止まってくれず大町温泉まで4時間ほど歩き、600円で1日の疲れをとり、ぽかぽかな体のまま寝袋に入り、公民館の軒下で野宿をした。

27日
寒さで3時には目が覚めたので、伊万里を目指して歩くことにした。
伊万里には、僕が高校3年の夏休みに友達3人で旅したベトナムで出会った、古竹明日香さんの実家があった。古竹家は黒毛和牛を飼育しており、過去には日本一にもなっている。以前、石巻のおちゃっこで振る舞った芋煮の牛肉を提供してくれたことでも、当ブログで報告している。
http://toyama-shonen.blogspot.com/2011/10/blog-post_20.html

午前10時、古竹さんと合流し古竹家での生活が始まった。

2012年1月23日月曜日

宮島

22日

たんの君に紹介していただいきお世話になっている、広島市の田村牧師に、自分が中島に2ヶ月間いたことを話すと、偶然にも田村先生も中島に月一回礼拝に行っていることが判明した。しかも、岡田家のかんなとさわが参加したクリスマス礼拝にも来ていたことがわかりました。

日曜礼拝後に僕は市街地を散歩した。
田村先生夫妻は礼拝後に中島へ。(岡田家に訪問してくれたと23日夜に連絡がありました)田村家に残ったまな君(高3)とまりさん(高2)の三人で生活している。

23日

今日は2人の登校時間に合わせて宮島に向け自転車で出発。
自転車をこぐこと2時間半、フェリー乗り場に着き往復340円の切符を買い宮島へ。島に近づきフェリーからでも日本三景の厳島神社を眺めることが出来た。

300円の入場料を払い拝観、その後1時間かけて600mの弥山(みせん)に登り、山頂で地図を見ながら広島市内や孤島の位置関係を観察した。

下山後はもみじ饅頭を揚げた150円の「揚げもみじ」を食べ、15時頃フェリーで戻り、あなご飯(大人価格の1470円)を食べた。



へとへとになりながらも18時自転車で帰宅。本当に宮島を満喫した。

中・高と日本史を習っていた頃に感じた「どこか遠くの話」が、こうして実際に足を運ぶことで想像しやすくなるものだ。学校教育ももっと旅ができれば、子供たちは苦労しないのではないだろうか?

広島滞在の目的の平和記念館には明日足を運ぶ予定だ。

2012年1月20日金曜日

香川県にて

カブさんと別れた17日(火)の晩から、香川県善通寺市に暮らす高校時代の一つ先輩のたんの君のお宅にお世話になっている。高校在学中は男子寮で同室をしたこともあり、よく一緒に遊び、働き汗を流した仲だ。


善通寺市にはその名の通り、善通寺という大きな寺がある。空海のお父さんが807年に開いた真言宗善通寺派の総本山らしい。
隣りの琴平町にある金比羅山にも登った。この機会に歴史を学べばよいのに、さっぱり知らんまま山の上に築かれた建物や積んである石にばかり感動し、宗教はお金持ちだと感心していた。




また讃岐うどんも15件ほど飽きずに食べ歩いている。

明日20日(土)から広島県の教会に3日間お世話になります。


初めての広島では、高校で歌っていた「ヒロシマのある国で」を想いながら平和学習を深めようと思っています。





【作詞】 山本さとし
【作曲】 山本さとし

1.八月の青空に 今もこだまするのは
若き詩人の叫び 遠き被爆者の声
あなたに感じますか 手のひらの温もりが
人の悔し涙が 生き続ける苦しみが
わたしの国とかの国の 人の生命(いのち)は同じ
このあおい大地のうえに同じ生を得たのに
※ヒロシマの有る国で 
しなければならないことは
ともるいくさの火種を 消すことだろう

2.かの南の国では 大国がのしかかり
かもくな少年らが 重い銃に身をやく
やせた母の胸に 乳のみ子が泣きさけび
はだしではだかのまま 逃げまどう子どもたち
故国の土をふむことも 家族と暮らすことも
許されない戦争がなぜに今も起こる
※ くりかえし

私の国とかの国の 人の生命(いのち)は同じ(平等)
このあおい大地の上に同じ生を得たのに
※ くりかえし x 3

2012年1月15日日曜日

仕事納め

15日
  中島でのお仕事も本日をもって終了いたしました。2ヶ月間、様々な体験をしすぎてとっても早く感じています。


 最終日の今朝は、近所のたてるおじさんが船で沖に、置き網の引き上げに連れて行ってくれました。以前「漁に行ってみたい」と話していた僕がもうじき帰ると聞きつけて、忙しい農作業の最中、奥さんには内緒で14日に網を張りに行ってくれたのでした。

船の操縦を進められたカブさんとたてるさん
網は20mほどのが2本あり、手で引き上げていきました。
 収穫はたてるさんいわく大漁で手の平ほどの魚がたくさん網に絡まっていました。
 大変なのは獲った魚を網からはずす作業でした。とげとげの海の魚は川魚のようにツッルンとはいかず一匹ずつ網の目から頭を出し、ぐいぐい押し出してとりました。
 収穫した魚とタコ、サザエをいただき、お昼ごはんのタコサザエ飯になりました。
一苦労して網から魚をはずした後のカサゴとのショット。残念なのが写真にすると小さく見える。
お昼にはあきさんが煮付けにしてくれて、いただきました。

船着場にひじきが干してありました。
 最後のお仕事は14日の午後に咲和と栞那とカブさんで捥ぎに行った、みかんの出荷でした。
 カブさんとたまたま見つけた耕作放棄地3年目の畑の持ち主さんを泉さんが付き添って調べてくれて、了解を得てからみかん捥ぎをしました。放棄された原因はみかんを運び下ろすためのモノラックのレールがさびて腐ってしまい、買い換えるには200万もかかり割に合わず、止めざるを得なくなったということでした。
 出荷したみかんの主な行き先は被災地石巻市でした。

 カブさんは夕方から道後温泉に行きました。僕は明日朝、中島を出発しカブさんと合流。高知・香川とレンタカーで観光します。その後は、目指せ屋久島!遠回りの旅!が始まります。


2012年1月14日土曜日

カブさん上陸!

被災地で共に働いていたカブさんが12日の夜から来てくれている。正月休みを利用してみかんもぎを体験しようと気合満々。
カブさんとの島での活動は http://twitter.com/kabulabo
にて。昭和風の写真に注目。

2012年1月13日金曜日

同居人

12月22日から雨が降らなかったのですが、夕暮れごろ久々の雨がぱらぱらとだけ降った。

「僕は雨男です」と言った森垣瞳君が朝早くに家を出て、彼の高校のある北海道へ向かった。

瞳くんとの出会いは12月22日。高校2年の冬休みを利用して、青春18きっぷで5日間かけて、北海道から広島までを各駅列車に揺られ、最後はフェリーで中島に到着した。
それから約20日間、ぼくは瞳くんとひとつ屋根の下で生活を共にした。と言っても岡田家で食事をとりながら、少し離れた家に寝に帰るくらいだが。
睡眠と読書が大好きな瞳くんが中島に来てよ~くしたこともその2つ。果たして中島に来てよかったのか?(笑)とちょっぴり疑問もあるけれど、ウィルコムの携帯がつながらないこの島で、高校生活から離れ、農作業をしながらいろいろなことを考えられただろう。

「北海道に帰ったらスノーボードを始める」と言って、一緒にヤフオクでスノーボードを選んだ。島帰りの北海道は考えただけでも寒い。どーか、スノーボードで怪我をしないよう気を付けてほしい。

夕方、「大阪に着きました」と連絡をくれた。僕ももうじき出発だというのに、やらなくちゃならない作業がまだ残っている。まったく晴れ男は一足先に帰ってしまった。

2012年1月11日水曜日

井戸掘り

ここ数日、岡田家裏のお庭(家庭菜園用)に放置されていた井戸水の再生を求めた、井戸掘り作業をしてきた。2つの放置された井戸は、地下4mあたりから土砂や石、木などが積もっていた。それらを取り除き、野菜用の水をくみ上げるのが目的でした。

年明けから合間を見て作ってきた、弁の付いた塩ビパイプの堀機を地上から下ろし突くのだが、掘り上げる土砂の量には限度があり、そう簡単にはいかない。覚悟を決めリングの中に入り、腰を折るのもやっとの狭さの中、泥に手を入れて異物をかき出していく。
 一時は諦めかけていたが、昨日一本目の井戸にポンプを取り付け水を引くことができた。


途中手伝ってくれた泉さんの話では、「水不足になりやすい島では昔、あらゆるところに井戸を掘った。掘るときは、技術をもつ井戸掘り士を一人雇い、他は親戚や仲間が『結(ゆい)』で、一人じゃできないことを助け合った。石を積んだ段々畑や家づくり、風呂を沸かすのも交代で、共同で入った。
井戸を掘るには大きな穴をみんなで掘り、石や素焼きの菅を何日もかけて積んでいき作る。しかし掘っても掘っても水脈にあたらないことは珍しくなく、何度も掘った。水を取るというのは大変なことなんじゃ」 と語った。

泉さんの名刺の肩書は「百姓」である。


先人たちが苦労して掘った井戸の泥かきを、数時間で諦めていた自分が非常に情けない一方、待てない自分が、待ち続けた先人たちの生き方に触れることができたことは、本物の喜びです。
また同時に、先人たちが残した土地や生きる知恵を尊ばず、新しいものに広がっていく社会に疑問を抱く「一体どこに向かいたいのか??」。私たちが目を向けるべき生活スタイルは辺ぴな所で静かに、逞しく生きているのではないでしょうか?

2012年1月8日日曜日

これがひじき!

 無事に3日間のひじき刈りが終了しました!
三日目はさすがに疲れました。
生えているひじきを磯から持ち帰りました。刈るときはひじきを束ねて根元を鎌でザクリ 。
ひじきは空気にあたると乾燥して黒くなり塩が吹きます。味はしゃっぱく磯臭い。

収穫したひじきは一晩水につけ塩抜きします。


塩抜き中の生ひじきです。この時の歯ごたえは噛み切れないほどコリコリでダシを取った後の昆布のような味。




塩抜き後、6時間窯で蒸らします。窯一杯で6コンテナ分入る深い窯です。
窯から取り出すと見覚えのある真黒なひじきですね。乾燥させずそのままが味が濃く風味も良い。ただし乾燥させる商品も作ります。

知られざる食のすがた!いかがですか?
何気なく食卓に上がるひじきの元のすがたを皆さん知っていましたか?
僕は中島に来るまでひじきのことを知りませんでした。ひじきは沖にはなく磯で潮が満ちたり引いたりする一部の浅瀬にしかつきません。また、長いものでは1m以上にもなり、切り株は再び伸びていきます。
みかんだけで生計を立てることが難しい農家は、こうした半農半漁の中働き糧を得ているのでありました。

2012年1月7日土曜日

月夜の下で

6・7・8日
この三日間、夜中の磯へひじき刈りに、向井さんの手伝い役として着いて行っています。時間帯は最も潮が引く深夜0時~4時くらいの間で、青いコンテナに30杯弱ものひじきを収穫します。

ひじき刈りは、ヘットライトを頭に着け、軍手をはめ右手に鎌を持ち、磯に30cm程度伸びたピカピカのひじきが、潮の引いた磯にふさふさと横に倒れているのを ザクリ  ザクリ と刈っていきます。
僕の重要な役割は、向井さんがせっせと刈り取ったひじきの入った15kgほどのコンテナを、磯から砂浜を通り防波堤の階段を上り、軽トラへ運ぶ仕事です。それが向井さんにとっては一番しんどい作業なので、ぼくが手伝うことになりました。運ぶ合間を見て僕も刈ります。幸いにも2日間は天気に恵まれ寒くなく、月夜の下で寝ぼけもなく働けています。

残るは今夜1日。では床に就こうと思います。
収穫後のひじきの手入れも報告します。

2012年1月5日木曜日

2012年

大晦日には向井家のみかんをもぎ、14升分の餅つきを手伝い、紅白を見て過ごした。

新年早々解禁した、ひじき狩りに朝5時から磯へ出動しコンテナ6杯分採り、元旦のすき焼きを食べのんびり過ごした。

3日までは岡田家でお雑煮を食べながら倉庫の整理、貯蔵していた伊予柑の選別などをした。
  よしさんに髪を切ってもらった。

4日は泉さんの荒れていたレモン畑を鍬一本で地道に開墾作業をした。

2012年も早くも5日が過ぎた。北海道の実家は50センチの雪、山形の母校は連日の降雪で2メートル以上の積雪だとか。こちらは四国に雪が降っても中島には降らないので、まだ雪を観測していない。雪は降らぬとも、島に来た時に比べて随分寒くなったように感じる。

僕は今日まで数多くの夢を抱いてきた。あれもしたい、これもしたい欲張りな僕は二者択一ができず今に至る。思いついたことはできるだけ挑戦してきたものの、特別な技術は身に着いていないが、もう少しこのスタイルで生きて行こうと思う。6月に20歳を迎えるが、とりあえずそれまでは。