2012年2月18日土曜日

屋久島の電気

 パソコンをつけたものの、ハッサクを食べ始めたら、おいしく止まらなくなってしまいましたが、つけっぱなしのパソコンに気づき、まずは投稿することにしました。

 原発に頼らない島、屋久島の電力は水力発電が1万4千人あまりの暮らしを支えています。離島の電力って送電の問題があるから、電力の地産地消の方がメリットが大きいのでしょう。また、雨量が豊富な屋久島では水不足の心配はありません。

 しかし、山の中にダムを造り発電所を構える姿は、残念でもあります。

 また、気候変動が激しく、土地は山ばかりで、猿や鹿が人の数と同じくらい暮らす島では、農作物の耕作は難しく、食料自給率はとっても低いのが現状です。

 
 濱岡家では風呂炊きや暖房、お米も薪で炊く暮らしをしている。製材所から余った木材を買い取り、大切なエネルギーとして消費している。
ストーブの上で炊かれるご飯
 昨日、濱岡家で金曜ロードショーの映画アバターを鑑賞したら、CMが気になった。社会の反省に反して、電気自動車が増えていることです。確か、原発事故以前は化石燃料の自動車より、電気自動車が地球に優しいとされてきた。そして、福島がおこり節電が呼びかけられて夏が過ぎ、一年もたたないうちに電気自動車に補助金もついて、購入しやすい価格になった。
一体、あの事態を経験した後の補助金とは何なんでしょうか?


駅のトイレで見つけました。メリットは手を近づけるだけで流れます。
青いボタンは停電時の洗浄ボタン。触れれば電気はいらず、触れたくなければ電気を使う。
停電ではありませんでしたが、意地を張って青いボタンで流しました。

2012年2月14日火曜日

東シナ海のお魚さん

13日
 近所のお友達とも君からトビウオとシイラをいただきました。トビウオは立田揚げに、シイラはお刺身とバター焼きに調理されおいしくいただきました。


シイラの胃袋からはさんまが出てきました。

屋久杉ランド

豊かなこけに残る雪
 12日
 日曜日にやっと気持ちのよい、青く晴れた空が広がりアマ(まま)とくにひろと僕で屋久杉ランドに行った。おにぎりとおやつを持って、太忠岳への軽装登山をおこなった。
 
山頂の岩の上でランチをいただきました。

帰り道、5歳になったばかりのくにひろは疲れて、
おぶられることも何度かあった。

それにしても深い森だ〜
倒木の根とおやつに持っていった岡田家みかん。
濱岡家では、はるみという品種のみかんが大好評


帰宅時あっという間に雨模様になった。
登山中に晴れてくれてありがとう

2012年2月11日土曜日

屋久島から

 長崎県国見を出発した2日は全国的に雪が観測されていた。

 午後4時頃、志波家のご両親には有明フェリーの乗り場まで送ってもらい、フェリーが熊本へ向け出港した後も手を振ってくれた。有明フェリーの東さんが面倒を見てくれて、鹿児島行きのトラックに乗ることができ、夜中のうちに鹿児島市内に着いた。

桜島
 3日
 日中、鹿児島市内をぶらぶら歩き、午後6時出航のハイビスカスで屋久島へ向かった。
 
 この旅の目的地である屋久島。
 
 4日
 朝7時宮之浦港に到着した。

雨模様の山
屋久島の鹿
 お迎えにきてくれたのは、愛媛の岡田亜紀子さんから紹介していただいた濱岡茂博さん42歳(通称:茂さん)。屋久島に来て2年目の濱岡一家は4兄弟のいる6人家族。大工の茂さんは夢の木造マイホームを建てるため、福岡から屋久島へ越してきた。
 
 東シナ海に浮かび、2000m近い山がそびえ立つ屋久島の気候は位置ごとに異なっていて、冬は雨ばかり降り、山では雪が降り積もっている。屋久島の厳しさを前に、目的としていた登山に行くことをもう一度考え直している。
 
 しかし、暗いことばかりではない。
 日々、茂さんの元で大工仕事を手伝えたり、末っ子のくにひろ(5歳)と一緒に寝たり、薪で炊いた風呂に入ったり、アマ(母さん)と夕食の準備をしたり、茂さんのお友達とであったりと毎日が充実しています。
茂さんと工場にて



2012年2月1日水曜日

志波家

雲仙普賢岳(右)と平成新山
1日
 発見1 高校サッカー名門の国見高校がある国見町は、街灯カバーがサッカーボールでした。
 
 今日は志波家のビニールハウスのビニール張り、家のわきを流れる水路でのしじみ採り、ストック(アブラナ科の花)のラッピング、雲仙&平成新山見物、諫早湾干拓事業地を遠くに眺めた後、市場へかぼちゃとストックの出荷、天草四郎がキリスト教弾圧に対して起こした「島原の乱」の島原城見学、りょうへい君宅へ・・・・
(自分自身の日記も含めたブログなので、読みにくいのはご了承ください)
 
 かず君の家はお父さんが退職し兼業から専業農家にかわったばかりのお宅。ここ国見・島原はイチゴや白菜用のビニールハウスが立ち並び、露地ではホウレンソウやレタスのためのパオパオがかけてあり、石を積んだ田んぼがだんだんになった土地柄。イチゴ農家は毎年ビニールを張り替えるので、そこで出た中古ビニールを志波家で利用し、張りました。
 
メロンとストック用予定のビニールハウス
 発見2 しじみって淡水の中で育つんだ。

 ストックのラッピングを行った土間には立派な釜戸が残されていて感動でした。

海にうっすらとまっすぐにのびる水門。手前が海水で奥が真水。
 薄っすらと記憶に残っていた諫早干拓でしたが実際に見ると、で で でかい!膨大な変化をもたらす公共事業って、一体誰にとってどうなのでしょうか?

 夕食後に行ったかず君の友達のりょうへい君家のお父さんはフェリー会社の方で、明日17:15分の熊本行きフェリーと、鹿児島行のトラックまで僕のために話をつけてくれました。この急展開に僕自身驚いています。

長崎の国見にて

30日
 居心地のよかった古竹家から腰を上げ、正和の武雄への出勤に合わせて、朝7時過ぎ出発した。おにぎり6つとおかずの入ったお弁当、みかんとバナナを昼食にと持たせてくれた。

 武雄のセブンで下してもらい、正和と別れた後、歩きながら「長崎方面」と書いたボードを出してヒッチハイクを始めた。2キロほど歩くと嬉野行のおじさんが乗せてくれた。話すと本人も何度もヒッチハイクをしてきて、多くの人に御世話になったという。
 嬉野に着くとおじさんはお茶屋さんのオーナーだと分かり、嬉野茶をごちそうしてくれた。

 お茶屋さんを出ると話しかけてきたおじいさんがボードを見て、「おぉ、長崎行きたいなら、黙ってついてき」と言ってくれ、すぐに観光バスが到着し、おじいさんが僕をかばいつつバスに乗せてくれた。車内には荷物を持たない何か嬉しそうな年配の女性に男性。僕の世代は見つからず。会話の内容を聞くと「2かけ3かけ、勝った負けた、5番2番のボート」 ボート!!そう行先は大村の競艇ボート場で、その無料送迎だった。

 その後2台の車にお世話になり、長崎市内の原爆記念館に到着した。
 館内ではボランティアさんがガイドしてくれるということで、入口にいたガイドの女性、鈴田さんにお願いした。市内出身の鈴田さんは長崎の財政の現状やこの時期の観光地など、ただ拝観しただけでは知りえないことまで話してくれた。また、自身がボランティアする岡まさはる記念長崎平和資料館http://www.d3.dion.ne.jp/~okakinen/ へのお誘いも受け、翌日伺いますと約束した。

 その日の夜は中華街で行われているランタンフェスティバルhttp://www.nagasaki-lantern.com/に行き、ぶたまんを食べた。
 その夜は県庁近くで野宿した。
めがね橋

31日
 古竹家の弁当を食べ分け、朝食までもたせ完食した。

 予定通り平和資料館に行き、朝鮮人の強制連行や大虐殺といった加害者側の日本を写真などの資料から詳しく学んだ。
 お昼過ぎ鈴田さんと昼食を食べに行き、長崎ちゃんぽんをごちそうになりました。

 夕方「雲仙方面」でヒッチハイクをすると、和明君(24)というお兄さんがUターンして乗せてくれた。
 かず君と小浜温泉街に行き日本一長い足湯や昭和風の150円風呂につかり、夜、雲仙の地獄を観光して、国見の田舎にあるかず君の暮らす志波家に到着した。そう、奇跡的な出会いから宿泊までお世話になることになりました。