2012年12月10日月曜日

復興応援隊の応援in北上


  今朝、事務所が完成し、引き渡しをしました。
 先週月曜日朝に山形を出発してから、ここにこもりっきりで作業してきました。好きこそもののなんちゃらで、夜寝る前まで、次の日の作業順序のイメージをすませ床に就く。その甲斐あって、大きなやり直しはなく順調に進みました。ただ最後、化粧の枠に打った金色の釘が見事に曲がってしまい、達成感より次への課題を感じ改装作業が終わりました。
 明日からも作業場は変わらず、事務所の隣部屋で元もと牛をつないでいた部屋を野菜(漬物類)収納室に改装する作業が続きます。14日には山形に戻れるよう計画を立て無理のない作業を進めなければなりません。
 15日には新潟へ大工さんを見学訪問し、17日から当分の間、山形蔵王ライザのペンションハイジで働く予定になっています。世の中には短期で必要とされる、フリーターが求められる職場も結構あるのですね。
昨日9日、天井にも断熱材を入れ、夕方西村ご夫妻の協力により3時間ほどでボードを張り、
枠を止め、今朝クッションフロアと化粧の枠止めで完成!


ASKULで発注したデスクやロッカーも午前中に届き、
午後に組み立てセッティング
西村さんとのツーショット
喜びと同量の疲労感が伝わりますか?
ちょーど1週間前は倉庫でした。
西村様さまさまさまさmmmmmn ありがとうございました!

2012年12月8日土曜日

作業5日目



 震度4を記録した昨日の地震、その時、僕は改装作業をしていました。地響きと共に横揺れを感じ外へ出ると、築120年のかやぶき屋根住宅は音を立ててきしみ、本震の揺れが長く続いた。
 周囲には津波を経験した女性が1名と作業中の西村さん他女性2名がいて、揺れがおさまるのを待ち、おさまってからTVを付けるとNHKの津波警報。 女性は近くの自宅へ連絡を入れたが繋がらず、お子さんのことを心配して車で家に戻り、その後避難。
 私たちは震災時に、津波が到達していない地域にいたため「予測1mでは、ここまでは来ないだろう」と予測していたが、もしものことを考え避難時の経路の確認や災害時用リュックの確保などをしてTVを見ていた。何分かおきに町のサイレンが鳴り防災対策委員会からの非難の放送が流れ消防車も出動し呼びかけていた。津波警報が解除される前には、作業に戻り地震発生からの出来事を反すうした。
 止められていた携帯電話の連絡が解除された後、数名から安否確認の連絡をもらい無事を伝えた。 


 作業5日目はまず僕が壁に下地を組み、西村さんに断熱材をほぼ全体に張ってもらいました。


作業6日目


 作業6日目の今日は電気配線や照明の取り付けのため山形から吉巳さんに日帰りで来ていただきました。 
 断熱材をおおう壁も張り終わりコンセントも3か所に取り付けられ、残すはフロアと天井!
ふーもうひと頑張り。工具を使う作業が続くため、けがの無いよう気を付けます。




2012年12月6日木曜日

作業4日目を終えて

 
 
 吉巳さんの遠隔操作や休憩中のPARCICティモールコーヒーhttp://www.parcic.org/product/cafetimor/のおかげで作業は順調です。
 改修後に部屋を活用するのは、主に地元の女性で復興応援隊の4名。復興応援隊とは宮城県の事業で、これから3年間県からの予算を活動資金にし、復興へ向けた取組を指揮する人材育成が目的だそうです。県内7か所のうちの一つがここ石巻市北上地区。
 
 
 
 来週10日から仕事場として活用していただくため、西村さんと共に明日もがんばります。 




2012年12月5日水曜日

ただいま出張中

出張先 石巻市北上町
 
 
先週NPO法人PARCICから電話があり、納屋の改装のご依頼を受けて、12/1に吉巳さんと日帰りで北上の事務所に足を運び、下見をした。吉巳さんから現場と山とでレクチャーを受け3日の朝に、道具を積んだ自動車でひとり出発。
 
状態の良い納屋だったので作業は順調!写真は4日現在の状況
住み込み先はかやぶき屋根の古民家。
被災した冊子のサイズに合わせて、玄関戸に

部屋の中から

床の下地1尺おきに、水平に

作業は2人で西村さん

去る霜月 やはやはや

 
 
 川崎家で過ごす日々は、PCが似合わない。
 ナラ枯れした木に生えたなめこを独り占めする喜びを、
 冬を迎える支度が、だんだんと片付いていく喜びを、
 
 
 大石沢に流れる川の音も火の音も届くなら届いてほしい。
 
 
 
 このひと月のうちに紅葉が落ち、霜が降り
 
 
 また、雪が降り始まった。
 
 
 
 
 
 山での暮らしがぼくを引き付ける。




吉巳さんと共同作業で作り変えた階段


2012年11月9日金曜日

日本満喫

 
29日 菅野家から
 時差の影響で4時には目がさえてしまった。
7時 朝食には川﨑家のつや姫をいただき、もちもち感をかみしめる。イタリアでもおいしいお米を食べていたけれど、川﨑家のお米は僕が春に田植えを手伝ったこともあり余計においしく感じた。
  
 
できたばかりの川﨑吉巳さんの名刺。
名刺デザイン・制作・田中藍
9時 康太君に成田空港駅へ送ってもらい特急成田エクスプレスで東京へ向かう。
 予定では新幹線で3つのケースを運び、14時に山形県長井市にある斎藤木工へ受け渡し、打ち合わせだった。しかし停車駅の少ないエクスプレスからの景色と、会話ができる自由さと、手荷物をすられにくいことへの安心感に加え、時差のせいで東京駅を寝過ごし、新宿まで行ってしまった。
上野へ戻り一時間遅れで山形新幹線つばさ自由席に乗りこんだ。フィウミチーノでの出来事に比べれば冷静に対処することができた。
斎藤木工への受け渡し
 19時 斎藤木工での3時間余りの打ち合わせを終えると、鉄彫刻家の那須悟さん(3人展の作家さんの一人)に迎えに来ていただき作谷沢のお宅へ。奥様の暢子さんの作る夕食を頂き、その後那須さんと僕はアトリエへ。那須さんは平日は石屋さんで働き夜帰ってから、制作活動に励んでいる。今回の企画は講堂建築との兼ね合いもあるため時期をずらせないから力仕事を終えた後、限られた夜の時間にまた力仕事に移らなくてはならない。僕もここで体験したけれど、熱していても鉄を曲げることは容易なことではなく、加工には時間がかかる。ましてや今回の手すりのように大きな作品になると魂を込めずには続かず、出来上がらない。
暢子さんと行った朝日町のりんご温泉。
 30日は半日仕事・半日休み、再び夜はトンテンカントンテンカン・・・・・
31日は坂田さん那須さん僕の3人でシベールアリーナ搬入作業。途中斎藤木工の職人さんがブロンズ取っ手のついた扉を届けてくれ、ご対面。 

 小さな国へ
 シベールへの搬入を終え1日のお昼は徳さん宅でお寿司をいただき、夜に小国の川﨑家に到着。川﨑家には8月に生まれたかりんちゃんも増えて、お兄ちゃんの柳君は前より会話ができ、子どもを中心に食卓を囲んでいた。吉巳さんからも歓迎の言葉をいただき、僕は再び川﨑家の居候者となったのである。
まさえおばあちゃんが炊いた赤飯。
その日は柳君の妹のかりんちゃんの誕生100日お食い初め。
つやつやのもち米
美しき川﨑家の朝食

ローマからの出国

 僕と23kgのケースを3つ積んだ加藤車はローマ・フィウミチーノ空港へ着いて、20時「山形の会場でまた」と言ってお別れした。各国の人々の表情に緊張感が漂う国際空港で、僕も最後のゲートの前まで来ていた。すると無意識に流れるアナウンスの言葉に ”#$%&’(()=~|{>TOYAMA AKIHIRO!”#$%&’()=~~~~|、と自分の名前が呼ばれた気がした。
ブロンズの入ったケースを重そうに運ぶ僕(やらせ)
 搭乗口の女性係員に尋ねると「あなたのバックがセキュリティーにかかった。そこで待っていて」と言われ、待っていると陽気な男性係員(40歳くらい)が来て、僕は空港の裏側(関係者以外立ち入り禁止区域)へ連れてかれた。「今、警察が来るから一緒待っていよう」と言われ、会話はサッカーの話に。ROMAファンだと主張する彼はRAZIOマフラーを巻く僕に「なぜローマじゃないんだ」と冗談交じりで尋ねてくるが、サッカーに詳しくない僕にはそんなのどうでもよく適当に答えるものの、本心はこのトラブルをどうくぐり抜けられるかを考えていた。
 朝美さんとの通信手段はない、搭乗時間は40分を切っている、ブロンズを運んでいるだけで悪いことをしているわけではない、怪しまれないようにするには・・・・。極地に立たされたような事態に、焦る自分と落ち着かせる自分。確認しますが語学はいつも、なんとなくわかっているつもり程度。
 
 警察2人に係員1人がそれぞれの車で着き、扉にSECURITYと書かれた部屋に連れられ計4人の立会いの下、X線に中身が写らなかったケースが1つあったことを説明され、開けるよう要求された。陽気だった彼の表情も一遍し仕事モードになっていて、警察は早くあけるよう求めていた。ビスでふたを閉じていたがドライバーを持っていなかったため、警察がふたをこじ開けた。僕は作家の作品だというと言うと説明が面倒になるため「I made it」と言った。
 すると「bello(美しい) bello!」と連発、その時だけ僕の作品になった彫刻をとても褒めてくれ、本当に気分が良かった。すぐさま荷物を元に戻し、それを僕の乗るエアチャイナの機体まで一緒に届け、22時僕を優先的に機内へ通してくれた。

 北京を経由して28日21時成田空港の税関を抜け、成田の菅野家に着きようよく安心することができた。

外山少年ローマから

  加藤 朝美 
 10月27日に外山くんがいよいよ出発。
70キロのブロンズを3つスーツケースに入れて先に日本に入ってくれます。成田から宅急便で送っては木工所の仕事に間に合わないから、29日にそのまま新幹線で山形の木工所に手渡しと説明代行。人生のうちで2度めの新幹線。
 でも、どうやって3つのスーツケース持って広い東京駅で乗り換えするんだァ?

 面白いと言っては失礼だけど、二十歳の外山くんが木工所のプロの人達に、取り付け位置や穴の位置、注意事項を説明してしまうんだから・・・・。そして12月には母校にこの外山指示のブロンズ取っ手の扉が設置される。

 1031日の搬入にも、展覧会で見せるメインのブロンズ取手が着いた玄関扉の搬入があり、
ここでも4人の作業員に位置と照明の場所等を指示する外山くんの姿が見もの。310cm,高さ250cm4枚の扉つきで展示し、更には20点前後の作品の設置も彼が進めるんだから。

心配?
全然ない。
だって彼がアトリエで制作準備して、ブロンズ屋でも設置位置を何度も確認しているから。メガネを探して2時間もウロウロしているぼくよりかなり判っている。アトリエでも休憩のコーヒーを飲みながら、何度も何度も打ち合わせもしたし、重用なのは「感覚、感性」。正確な位置なら図面や写真を見せればいいことだけど、回りがあっての配置だから、外山くんの感性に期待するしかないよね。


作家のぼくは遅れて112日に成田に着。実家所沢から5日に山形に入り、展覧会が始まっている会場のシベールには直行せず、歩いて15分隣の黒沢温泉に直行。
翌日6日、朝風呂を浴びてから夕方のオープニングに臨みます。

今年の3月は同じシベールの未来館で、「ボローニャの風景」の作品を設置した時は、夫婦ともに仕事に追われてボロボロ。やっと作品が仕上がっても、イタリア側で間に合わない書類や通関でクタクタになって帰国。更に成田のハードだった5時間の通関、500キロの作品を調べて課税して。
そこからすぐ新幹線で山形の設置へ。

 その滞在期間、この温泉と眼の前に広がる蔵王と日本的な朝食に救われました。気持ち的には昨日入ったばかりのローマの自宅風呂から、今日は黒沢温泉の湯の中へ、タイムスリップする「テルマエ・ロマエ」の阿部寛ように。日本の浴衣をローマ風(トーガ)に着て、日本食を不思議そうに食べる古代ローマ人に扮していました。

どうでしょう?黒沢温泉と目の前の蔵王の紅葉とシベールの展覧会は。運が良いと黒沢温泉からローマのカラカラ浴場へタイムスリップ出来るかも。(衣類は現地で調達してください)

2012年10月24日水曜日

LAZIO-MIRAN戦

先週、土曜の夜にLAZIO-MIRAN戦を観戦してきました!
まずはその試合のゴール映像です↓
http://www.youtube.com/watch?v=NPi2fQ944t0&feature=player_detailpage

チケット
夕方6時 加藤邸にて
 前日から楽しみにしていたサッカー観戦を直前に眠くなり横になっていたるとアルフレッド(ナンニさんの長男)とクリスティーナが車で迎えに来てくれた。僕はチケットとパスポートをもう一度確認。財布はスタジアムの混雑の中ですられることを心配し、置いていくことにした。

つれてってくれたAlfredとChristina
スタジアムまで1時間はかかるので、20時45分のキックオフに間に合うよう早めに出発したけれど、土曜の夕方はローマ市街に向かう車で込み合い(交通事故もあり)なかなか前に進まない。
 20時前にはスタジアム近くまでこれたものの、道路両端の駐車場が観戦客の車でいっぱい。ようやく見つけたスタジアムから少し離れた駐車場に駐車し、早歩きで向かう。途中パトカーが何台も取り囲んだミランサポーターバスとすれ違う。※サポータ同士の激しい喧嘩を防ぐため
 スタジアムに入口の厳重警備をパスし、待ちに待った場内へ。ライトアップされるコートが、小さくすら感じてしまうほど広いスタジアムと大衆が創り出すLAZIO応援歌の輪。
コートでは練習中

 地元LAZIOはローマがホームのため観客のほとんどはLAZIOを応援するためチームカラーの水色と白のグッツを身に着ける。MIRANサポーターはと言うと、端も端、一角に追いやられ缶詰に。
けんかを防ぐためにMIRANサポーターを隔離するスタッフ

 僕らはミランゴール側の指定席に着き、ビールで乾杯。
 前半は手前ゴールでLAZIOが2ゴールを決め、LAZIO優勢。僕は選手たちの動きが早すぎてパス回しのボールを目で追うのがやっと、ゴールは、っあ!!と言う間に決まるがモニターのリプレイがないためよく分からない。しかし、イタリア人は慣れたもの、その瞬間を見逃さず立ち上がり、両腕を挙げる者、隣にいる他人にでもキスを連発する者、鉄板の仮壁を蹴りまくり音を響かせる者など、この瞬間のために生きてきた!と言わんばかりの喜びを表す。
 


LAZIOサポーターは向かい側

ハーフタイムにコートのそばに行き記念撮影
 
後半はLAZIOが追加点を入れた後、MIRANの逆襲で手前のLAZIOゴールに2点を決める。すると追われるLAZIOサポーターがMIRAN選手の気に食わないプレイに対し、MIRANサポーターにブーイング。なんだかサポーター同士の戦いのようです。
 
後半ロスタイム4分の表示で、
LAZIO に逃げ切り、勝手終わってほしいと
そわそし立ち見をする観客
 
23時
試合はLAZIOが3-2で勝利し、大衆は満足げに急ぎ足で去っていく。夜中にも関わらず道路には歓喜のクラクションが響き渡った。

 
 
 僕の27日土曜夜の出発を前に、今晩はナンニ邸(水道屋)で夕食のお誘いがある。奥様のマリーサの手料理がいただける。




2012年10月20日土曜日

未知との遭遇


ローマ滞在も終盤、一つの疑問が浮かぶ。
タイトル「すべての未知はローマから」は、いったい何が未知なのか?元はすべての道はローマに通ずるをかけてローマより発信していこう、という経緯で名付けたのだが、食べブログなら知で、チャリ旅ならだけど、僕がイタリア・ローマで遭遇した未知とは何だろうか?


先々週一緒にローマを観光したタクミくん。
初海外イタリアをヴェネツィア→フィレンツェ→ローマ→ミラノ
→ヴェネツィアと大移動の一人旅。
丁度この日のバチカンは式が催されていて、
サン・ピエトロ大聖堂には入れず。
でもローマ法王お会いすることが出来た。

一人旅でちょっぴりさみしかったようで
カラカラ浴場で飛び跳ねるタクミ君左と
久々の再会を喜び飛んでいきそうな僕右
 









 














 

 そもそも僕が海外に出たのはこれが二度目。一度目は「高校最後の夏休みだぜ!!人生変わるような刺激が欲しい!!さあ、行こうベトナム20日間の旅!!」と(勝手に)題した、ベトナムを縦断する男友達の3人旅をでした。
 思い出とは不思議なもので、楽しかった事ばかり、でも、その時は初の海外を楽しむ余裕なんてなかった。ましてや、3人に共通する目的があったわけでもなく、僕は「少数民族の衣裳で日本に帰ってきたらカッコイイだろうな~」程度の思いつきで出発を決めた旅だから、いざホーチミンに着いたら「さてどうしようか?・・・・・・・・」あれがしたいこれがしたい訳でもないから、行き先は決まりにくく、ホテルはダブルの部屋をトリプルが借りるから2日に1度は二人で1つのベットで寝る。時に喧嘩をしながらも3人で町を転々としていく中で、ほぼ直角で木製の座席の電車に27時間揺られてみたり、ハロン湾に浮ぶ客船に泊まって夜の海に飛び込んでみたり、ある時はトラブルに巻き込まれ人力三輪車シクロに追いかけられ民家に逃げ込んだり、ビーチの水着姿の西洋人に興奮したりと確かに刺激的だった・・・・・・
夜のタクミ君は刺激的な覗きを?
いえいえ、鍵穴の向こうはライトアップされたサンピエトロ大聖堂です。
タクミ君はもう日本へ帰ってゴーバルの仕事に精を出しているはず。
 また違った一面ではベトナム戦争の跡地でクチの地下洞窟の一部を実際に歩いてみたり、幾つもの戦争博物館で平和学習を積極的に努めたものだった。展示物には戦時中の捕虜の様子や枯葉剤が引き起こした症状に今も苦しんでいる人間の写真、体がくっついた双子の胎児のホルマリン漬けを目にすると、息がつまり涙がこぼれた。
 初めての海外ベトナムを観光に慣れていない高3の僕は、初めてなりに楽しめたように思う。それに旅行後、一緒に行った友だちとの距離は喧嘩をした分だけ縮まり、明らかに関係性が変わった。

ベトナムでは100円ほどでフォーを食べられたけれど、
イタリアでは節約のためにスーパーで買って食べるのが僕の観光法。こんな感じ
 2度目の海外イタリアでは、写真やTVでしか見なかったものを観光したり、インターネットで日本と気軽に連絡が取れると、案外ローマは近く、この時代世界は狭いな~とついつい勘違いしてしまうけれど、地図帳を広げてみると自分が見て来たもの知っていることなど無に等しのだと痛感する。地図上の大きな大陸ともっと大きな海、もっと大きな太陽系、それより大きな銀河系には未知が詰まっている。どんな世界が広がっているのだろう?と考え出すとわずかな想像力でも、どこまでも僕がちっぽけで、気が楽になる。地図帳をながめて全てが未知と化した、アトリエでの一休みだった。

 土曜の今夜はセリエA(イタリアAリーグ)のラッツィオ対ACミラン戦のナイトゲームを観戦しに行きます。人生初のサッカー観戦がセリエAとは。

 

2012年10月18日木曜日

来年の展覧会へ 加藤朝美


  来月11月1日から始まる山形の展覧会は刻々と迫っていて、先日もボローニャのブロンズ屋さんへ仕上げに行ったりしているけど、一方では来年のドロミテの展覧会の方向を向いている。まだ一つ大事なことを書かないとドロミテの話が閉じられない。ぼくにとっても外山青年にとっても重要な決断がありました。
納屋正面
 今夏のドロミテ滞在は来年の展覧会への打ち合わせから幕が開け、国立公園の山の上の作品取材が続き、町長さんや国立公園事務所との話し合いで幕が閉じました。バカンスとやらを過ごせない体質なんですねぇ。
 その展覧会場とは、来年築101年にして9月に取り壊される町の真ん中に残る納屋を、壊される前の6月に準備期間と7、8月の展覧会期間に、そこを貸していただきます。
 地元の友達と展覧会の企画を、と簡単に考えていたら、話は膨らみ国立公園事務所のバックにある世界遺産のユネスコが入る可能性も出てきてしまった。「ありがとう、いい薬です」。来年の冬には答えをもらえるかな。
上の写真の左奥から撮影した納屋
 
  観光案内所を定年になった友だちエンマが、ぼくの話をつけた町役場や公園事務所とユネスコ関係を、もっと事務的にまとめたり、スポンサー探しを担当してくれ、もう一人の友だちマリアは観光シーズンで地元のボランティアが集めにくい時期だけど、2ヶ月間の画廊の見張り番集めとその手配をかって出てくれた。ぼくが水戸黄門ならこの二人が女版のスケさん、角さん役でこの二人がドロミテの展覧会のサポートしてくれることになる。
  更にその息子たちや甥が100年分の納屋のホコリと干し草を大掃除をしてくれ、電気の配線をギャラリー風にしてくれ、左官屋の甥が入り口の床のレリーフ制作を手伝ってくれる。更にその友達がグラッフィクデザイナーで、ぼくの作品と交換に案内状・ポスターを作ってくれる予定など・・・・・
照明の為の電気配線について打ち合わせ中

 今回の展覧会企画で特別なことは「『山の精』探し。
これは友だちの息子たちが描いた絵や、プラスティック粘土の不思議な形をした作品が、見る側のぼくたちにも楽しさを与えてくれる。鹿の角や伝統的なチロル風の家が多い中、この両親は家の壁という壁を子供たちの紙切れ、落書きまで作品として飾ってあり、一種の子供美術館風になっている。そこでぼくが提案したのが、ぼくの展覧会の期間中に、彼らが作る10から20の「山の精」を画廊のあらゆるところに隠す。そうすれば僕の作品に興味が無い子供にも山の精の写真と名前が載ったパンフレッドを片手に「山の精」探しに参加してもらえる。
自由な発想から「山の精」を生み出す作家たち
それは子供が触れない、届かない所でなければならない。持って帰ってしまうこともそうだけど、いちいち見張りの人に渡されても、対応が出来ない。納屋のどこを壊しても良い条件だから、床や壁の一部を剥がしてガラスの中に隠したり、天井からつるしたり。でも重用なのは展示会場では静かにしたり、作品には隠していないから触らないことを書いたり、ギャラリー内のマナーは親から注意してもらうことなど教育も兼ねている。その前にイタリア人の親の方のマナーを正すほうが必要な国だからねぇ。少し心配しているのが、大人まで作品を見ないで、山の精探しに夢中になってしまうことかな。
 
 滞在中、大忙しのぼくらだから恒例の親戚総出の草刈り・干し草集めに参加できない。お世話になっているし、昔の日本の田植えに似た賑やかさがある楽しい行事の一つだから、そこは外山くんに代わりに出てもらい、彼の活躍が光った。
 別れはいつも辛いもの。ぼくらが二週間ちょっと、外山くんと一週間。「また来年も来ておくれよ、もし私が居なくても・・・」とおばあさん。またか、と笑って返しても、95歳だと上手い返事が見つからないから困る。来年は花の多い6月から展覧会準備だから長い山小屋生活ができそう。

出発の朝の一枚。
別れの際に「また来てね」と手を握り声をかけてくれるオーマ
横で見ていた外山くんが、ぼくらの展覧会の企画に興味を持ってくれたのか、「来年も手伝いたい」と申し出てくれた。「ほんとぉ!!」短い期間で作品を準備するのに頭を悩ませていた所だったので、願ったり叶ったり。山の精探しなどの準備などは生き生きとやってくれそうな。目の前の山形の展覧会の影になっているけど、次のドロミテの展覧会は少しずつ動いています。