2013年2月22日金曜日

みそ造り

 東京でのクラス会を終えた僕は、そのまま飛行機で北海道の外山家に帰ってきました。
帯広の肌を刺すような冷たさを懐かしく思いながら生活しています。
 
帰った時くらい孝行しようと思い、まずはトイレの内装をガラッと変えた修繕に取り組み、母、タカちゃん(長男)3人で協力し合い、明るく以前より広いトイレと変えることができ一満足。
 
2月23・24日
 外山家主催のみそ造り体験が明日、明後日の2日間開かれます。明日の参加者は15人ほど集まって下さり、2日目も同じくらい参加されます。外山産の大豆は前日の今日から水に浸され仕込みが完了し、みそ造りに使用する塩、麹もともに国産を仕入れ準備完了。
 明日の僕の担当は昼食準備で、メニューは炊き込みごはん、豚汁、かぼちゃ団子、豆サラダで具材にはしつこいほど、我が家で穫れたものを入れる構想です。味噌作りは大豆をゆで、マッシュした後、冷まし麹、塩を混ぜていくというのが大まかな工程です。明日つかわれる大豆は40kgです。

2013年2月8日金曜日

ぶんどづる

水に浸した後、下処理を済ませたぶどうづるの皮を
同じ長さに揃え、編んでいく。まずは底を編み始める。
長いつるをぐるぐる編み、縦に立ち上げていき、口にはあけびのつるも使い厚くかたくしめる。
注意することはつるが乾燥すると割れてしまうので、力のかかる部分には霧吹きを吹きかける。


 6日水曜日に川﨑信君と蔓(つる)細工を習いに、川﨑家のある大石沢を更に上った上大石沢(胡桃平)集落に暮らす篠塚孝夫さんのもとへ行きました。
 まだ大石沢に除雪車が入らず、雪踏みをしていた半世紀前の雪に閉ざされた人々(主に男性)は、冬仕事として笠(かさ)や蓑(みの)桶や樽、草鞋(わらじ)や笊(ざる)といった生活必需品を作っていました。(女性は針仕事をしていたらしいです。)ゴムや石油製品が広まるにつれ需要が減っていく中で、技術の継承を目的とした勉強会を通して学び、蔓細工を実践する篠塚さんに、今回ぶどうづるの籠の編み方を教わりに行きました。

左は僕が作ったなた袋で、右は信君の籠。
この後水に濡らしバーナーで表面の粉やささくれを焼き処理する。
奥のかごは篠塚さんが愛用しているため、油けを持ちつやがある。
つやを出すには使い込むほかに方法はないらしい。
  
なたを持ち運ぶわけにもいかないので、
水につけ口を丸め水筒ケースにしリュックにつけました。  
8日山形を出発し、9日東京でのクラス会に出席します。12日には北海道帯広へ帰ります。

2013年1月30日水曜日

しばらくぶりに


 またブログ更新までの期間が空いてしまいました。
いろいろな事が一段落しましたので、12月中旬から今日までの動きを振り返ってみます。

 12月14日
 事務所作りを行った北上までさかのぼりますが、その事務所の隣の部屋にも手を加え、漬物樽などの保管ができる部屋を4日ほどかけて改装しました。時間がない中での慣れない作業に体の疲れも溜まっていたのですが、運よく関西からのボランティア大工さんと知り合い、助言をいただいたお陰で床張りを1日で終え、棚なども拵え(こしらえ)ることができました。
 その間にも事務所には備品がそろい、事務所らしさが加えられ14日のお昼、僕の帰り際には壁掛け時計が掛かり、それが復興へ向かう時を刻み始めたようにも見えた。全ての片づけを済ませると、応援隊の方がコーヒーを入れてくれ、その内のお一人は僕の出発に合わせてシフォンケーキまで焼いてきてくれた。僕は何かを成し遂げた充実感とありがとうの込められたケーキを同時に味わうと、しみじみと「来れてよかった」と実感した。
 13時。道具を積んだ軽自動車が、高速三陸道を走り山形方面へと向かった。18時ころ川﨑家に着き、夕食時には吉巳さんに写真を見てもらい、部屋の出来栄えを報告した。


漬物樽の保管庫
おふぃす

15日(土曜)
 イタリアから運んだ取っ手が独立学園の講堂に設置されたことを受け、見に行ってみると工事は少し遅れているようで現場の方々が慌ただしく廊下や階段の塗装作業をしていた。ただ、講堂内は出来上がっていたため、1年生はクリスマスに向けたクラス劇の舞台稽古をしていた。
 11月の3人展に出展した内のお一人、坂田さんの木彫の搬入がちょうどこの日行われていて、設置の一部を手伝い昼食を那須さんも含め3人で道の駅まで食べに行った。
 
 午後からは、前もって連絡し時間を空けて頂いた大工さんとの面会のため、車で新潟へ向かった。期待と不安と緊張を抱えた面会でしたが、事実僕はすぐに大工の道に進むことは選ばず、あくまで将来大工を志しているとの思いを伝えた。すると職人さんの返事は直球で、私はかばっていたものを明かされたようで、言い訳の言葉など見つからなかった。 
 その後設計士さんと夕食をし、小国へ到着したのは夜中だった。 

 16日(日曜)
 この日は川﨑信くんと、鶴岡に暮らし始めた僕の兄で(僕は4男)二男のつこちゃんの働くレストランにランチを食べに行った。そのレストランはピザが売りなだけに、ナポリピッザを頼むと、ローマで食べたナポリピッザに負けづ、塩気のきいた生地がおいしかった。
 その後山形回りで僕は蔵王ペンションハイジで下ろしてもらい、アルバイト生活が始まった。

蔵王終盤にはゲレンデへ
ただ、霧が濃くスキーをするには悪条件
雪不足とはいえスノーモンスターは見ごたえあり!
 1月7,8日と休みがあり東京へ行ったほかは、山の上で主にキッチンで働いていました。
ラジオを聴きながら、クリスマスか~大晦日か~正月か~成人式か~とその都度、実感の湧かないまま行事が去っていくことが寂しくも思えましたが、ラジオDJだってこんな日に頑張って働いているんだと思い、また休めている人のほうが少数だろうと考えながら口と手を動かしていました。


晴れ間をみて雪国を一枚撮影。
この中で暮らすなんて、先人たちも含め現代人も恐るべし

 20日にはアルバイトを終え、下山し小国町へ帰ってきました。雪不足だったは蔵王くらいなものだったのか、小国町は去年に続き豪雪。
 先日かんじきを履いて茂松山に登ったものの、降り続く雪の中除雪に向かう気もへたれ、お家にいることが多い今日この頃。(お陰でアイルランドのワーキングホリデー申請書を期間内に申請できたことは幸いである)

2012年12月10日月曜日

復興応援隊の応援in北上


  今朝、事務所が完成し、引き渡しをしました。
 先週月曜日朝に山形を出発してから、ここにこもりっきりで作業してきました。好きこそもののなんちゃらで、夜寝る前まで、次の日の作業順序のイメージをすませ床に就く。その甲斐あって、大きなやり直しはなく順調に進みました。ただ最後、化粧の枠に打った金色の釘が見事に曲がってしまい、達成感より次への課題を感じ改装作業が終わりました。
 明日からも作業場は変わらず、事務所の隣部屋で元もと牛をつないでいた部屋を野菜(漬物類)収納室に改装する作業が続きます。14日には山形に戻れるよう計画を立て無理のない作業を進めなければなりません。
 15日には新潟へ大工さんを見学訪問し、17日から当分の間、山形蔵王ライザのペンションハイジで働く予定になっています。世の中には短期で必要とされる、フリーターが求められる職場も結構あるのですね。
昨日9日、天井にも断熱材を入れ、夕方西村ご夫妻の協力により3時間ほどでボードを張り、
枠を止め、今朝クッションフロアと化粧の枠止めで完成!


ASKULで発注したデスクやロッカーも午前中に届き、
午後に組み立てセッティング
西村さんとのツーショット
喜びと同量の疲労感が伝わりますか?
ちょーど1週間前は倉庫でした。
西村様さまさまさまさmmmmmn ありがとうございました!

2012年12月8日土曜日

作業5日目



 震度4を記録した昨日の地震、その時、僕は改装作業をしていました。地響きと共に横揺れを感じ外へ出ると、築120年のかやぶき屋根住宅は音を立ててきしみ、本震の揺れが長く続いた。
 周囲には津波を経験した女性が1名と作業中の西村さん他女性2名がいて、揺れがおさまるのを待ち、おさまってからTVを付けるとNHKの津波警報。 女性は近くの自宅へ連絡を入れたが繋がらず、お子さんのことを心配して車で家に戻り、その後避難。
 私たちは震災時に、津波が到達していない地域にいたため「予測1mでは、ここまでは来ないだろう」と予測していたが、もしものことを考え避難時の経路の確認や災害時用リュックの確保などをしてTVを見ていた。何分かおきに町のサイレンが鳴り防災対策委員会からの非難の放送が流れ消防車も出動し呼びかけていた。津波警報が解除される前には、作業に戻り地震発生からの出来事を反すうした。
 止められていた携帯電話の連絡が解除された後、数名から安否確認の連絡をもらい無事を伝えた。 


 作業5日目はまず僕が壁に下地を組み、西村さんに断熱材をほぼ全体に張ってもらいました。


作業6日目


 作業6日目の今日は電気配線や照明の取り付けのため山形から吉巳さんに日帰りで来ていただきました。 
 断熱材をおおう壁も張り終わりコンセントも3か所に取り付けられ、残すはフロアと天井!
ふーもうひと頑張り。工具を使う作業が続くため、けがの無いよう気を付けます。